俗に、女三人寄れば姦(かしま)しいと言う。  三人どころではない、我が家の朝はといえば… \ 「あー! ひなたがあたしの卵焼きとったーっ!」 「もぐもぐ♪ だって、名前書いてなかったよ」 「あ、あのっ、わたしの分でよかったら…」 「かすみ、ほうっておきなさい。いつものことよ」 「……(もぐもぐ)…ごちそうさま」 「はやっ! さやかちゃん、超はやっ」 「すきありっ! よっしゃあ、取り返したあっ!」  …ほとんど戦争である。 「あ、お兄ちゃん、おはよーっ!」 「おはよう、兄さん」 「おはよ…」 「おはようございます、お兄様」 「おはよっ、和馬! 早く食べないと、ひなたに全部 取られちゃうよーっ」 「なによう、お兄ちゃんのは取らないもん」 「あーっ! なにそれ、差別じゃんっ!」 「差別じゃないよ、区別だもんっ!」 「ああもう、うるさいっ! 黙って食べなさい!」  …幸い、今日の講義は2コマ目からだ。  みんなが出かけて、この大騒ぎが一段落してから ゆっくり食べよう…。  俺は、リビングのソファに座って、新聞を広げた。 「…いってきます」  突然ぶっきらぼうな声が降ってきて、顔を上げると、 さやかが鞄を持って出かけるところだった。 「あ、ああ。気をつけて」  コクンとうなずいて、さっさと出かけて行く。 「ほら、あなたたちも、いつまでも遊んでないで」 「あーあ。ちはやちゃんはいいなあ、ゆっくりで」 「お兄ちゃんといい、大学生ってラクそうだよね」  ブツブツ言いながら、ひなたとみさとが立ち上がる。 「それじゃ、いってきまーす」 「いってくるねー」 「あ、ひなた! 服、服」 「……あれっ?」 「…バカ? パジャマのままじゃん」 「うーん。着替えたと思ったんだけどなあ」  パジャマ姿のひなたが首をかしげながら、リビング を横切っていく。 「ったく、トロいんだから、ひなたは。先に行こっと。 んじゃ、みんな、いってきまーす」  みさとは、元気に手を振って出て行く。  ちはやとかすみは、みんなの食器を片付けている。 「兄さん、お待たせ。もう落ち着いたわよ」  ちはやが苦笑混じりに俺を呼んだ。 「はい、どうぞ。熱いですからお気をつけて」  かすみが味噌汁をよそってくれる。  やれやれ。やっと落ち着いて飯が食える。  と、そこへ、バタバタとひなたが走ってきた。 「お待たせっ! …あれ? みさとちゃんは?」 「今、行ったところよ」 「うう、冷たいよっ。わたしもいってきまーすっ!」  またパタパタと走り去る。  毎朝、繰り返される、賑やかな朝のひととき。  女子校とか女子寮って、こんな感じだろうか。  …女子校の教師にだけは、決してなるまい。  俺は心にそう誓った。 「…じゃあ、あとは任せるわね、かすみ」 「はい」  ちはやは読みかけの本でもあるのか、洗い物を済ま せると、自分の部屋へと戻って行った。  ストン と、かすみが前の席に腰を下ろす。 「あの…おいしいですか?」 「…うん。おいしい」 「そうですか。よかったです」  ほっとしたように微笑んで、俺が食うのを見ている。  もう少しで食べ終わるという絶妙のタイミングで、 かすみがお茶を入れてくれる。 「はい、どうぞ」 「ん、ありがと」  さっきまでの喧騒がまるで嘘のように、ダイニング は、まったりとした空間になっている。 「今日もいいお天気ですね」 「ああ、暑くなりそうだな」  …年寄りの夫婦のような会話だ。 「さて、と。そろそろ行くかな」  お茶を一気に飲み干して、席を立つ。  空いた椅子に置いといたカバンを持って、と。  すかっ。  手が空を切った。 「……?」  目測を誤ったのか、と傍らを見る。  …ない。  確かにここに置いたはずのカバンが、ない。  呆然とする俺の脇を、かすみはスタスタと歩いて 行って、廊下へのドアを開ける。 「どうぞ、お兄様」  その腕には、しっかり俺のカバンが抱えられていた。  がっくりと力が抜ける。  俺は、妹に鞄持ちなんか、させたくない。  しかし、かすみはニコニコして、開けたドアを手で 支えながら、俺が行くのを待っている。  通る時に、さりげなくカバンを取り返そうと試みる が、巧みに防御されてしまった。  あきらめて、そのまま玄関へ向かう。  その後ろを、しずしずと、カバンを抱えたかすみが ついてくる。  その一種異様な光景を、階段を降りてきたちはやが 不思議そうに見ていた。 「…何も言うなよ」  俺は、ちはやの方に目を向けずに釘をさす。  ちはやが笑いをこらえているのが、分かった。 「……」  玄関には、ピカピカに磨き上げられて、黒光りした、 Dr.マーチンが鎮座していた。  自慢じゃないが、今まで1回だって磨いたことなど ない、ボロさ加減が味だったのだが。 「あら、すごい。違う靴みたいだわ」  ちはやが可笑しそうに言う。 「……」  困惑しながら顔を上げると、頬を上気させて期待に 満ちた目をしたかすみが、俺をじっと見つめていた。 「…ありがとうな」  ぽんぽん、とかすみの頭を軽く叩く。 「……!」  ぱあっと笑顔になる、かすみ。  いつものように、靴紐を解かないまま足を突っ込み かけると、 「お兄様、いけません! それじゃ靴が傷みます」  素早く俺の足元にひざまずいて、靴紐を解きだす。  …って、ちょっと待て!  いくらなんでも、そこまでさせる気はないぞ! 「わ、わかったっ! 自分でやるからっ!」  慌ててかすみの手を払いのけ、自分で靴紐を結ぶ。  横目でちはやの様子をうかがうと、目をそらしては いるが、小刻みに肩を震わせてやがる。…くそ。 \  靴を履き終えると、かすみがカバンを差し出す。  それを受け取ると今度は、玄関先で三つ指をついて 深々と頭を下げる。 「お気をつけて、いってらっしゃいませ」 「…いってまいります」  なんだか朝から疲れた…と思いながら、玄関のドア を開ける。  空は青く澄みわたり、初夏の風がさわやかだ。  ジーンズにTシャツというラフな格好に、不釣合い とも思えるピカピカの靴が、目に眩しい。  そっと振り向くと、ニコニコしているかすみの横で、 ちはやがひらひらと手を振っている。  相変わらず、笑いをこらえた表情のままで。 「…そうだ、かすみ」 「はい、なんでしょうか?」 「ちはやが、これからシャワー浴びるみたいだから、 手伝ってやってくれないか?」  一瞬にして、ちはやの表情が凍る。 「い、いいわよ、私はひとりで大丈夫」 「いいえ。かすみが責任を持って、お姉様のお身体の すみずみまで、磨いてさしあげます!」  ……。 いけない妄想をしてしまいそうなセリフだ。 「え、遠慮させていただくわ…」  じりじりと後退る、ちはや。 「そんな…。ぜひ、お手伝いさせて下さいっ」 「本当にいいんだってば!」 「あ、お待ち下さい、ちはやお姉様ぁ!」  …ふっ。これでちはやも、純粋な善意というものの 恐ろしさを、身体で(?)思い知るだろう。  ドタバタと走って行く二人を見送り、玄関のドアを 閉めると、俺はゆっくりと歩き出した。