次の朝。  俺が出掛けようと玄関で靴を履いていると、かすみ がパタパタと走ってきた。  別にいいと言っているのに、かすみは必ず見送りに 玄関まで出てくる。 「じゃ、行ってきます」 「あ、あの、お兄様」 「ん?」 「あの、これ…」  おずおずと差し出されたのは、小さな包み。  受け取ると、ほのかにまだ暖かい。 「ひょっとして、弁当?」 「は、はい…。あの、お洋服買ってもらったりとか、 いろいろ良くしていただいているので…」 「そんなの、気にしなくていいのに」  兄妹なんだから…。  まだかすみは、気を遣いすぎているところがある。  とはいえ、せっかくの善意だ。  俺はその包みをカバンに押し込んだ。 「あ…あの…ごめんなさい。お荷物を増やしてしまい ましたね。ご迷惑じゃないですか…?」  かすみは心配そうに、俺の膨らんだカバンを見る。 「いや、嬉しいよ。学食やコンビニの弁当にも飽きて きてるから」 「そうですか…それなら、よかったです」  かすみが笑顔に戻ったのを確認して、俺は、玄関の ドアに手をかける。 「じゃ、行ってくる」 「はい。お気をつけて」  昼休みを知らせるチャイムが鳴る。  三々五々散って行く学生を横目に校舎を出た俺は、 ひとり中庭のベンチに座って、かすみが作ってくれた 弁当を広げる。  もともと友達はそう多い方じゃない。  それに、あきらかに手作りと分かる弁当なんかを 食ってると、余計な詮索をされそうだ。  そう考えた上で、あまり人が来ない中庭を、食事の 場所として選んだつもりだった。  が。  俺が黙々と食べていると、見知った顔が、手を振り ながらこちらに歩いてきた。 「よ、来生」 「…おう」  同級生の中沢だった。  断りもなく隣に座ると、俺の手元を覗きこむ。 「わー、手作り弁当だ。このぉ、またどこかの純情な 女子学生でも、騙してんじゃないのぉ?」  俺はその物言いに少し傷ついたが、黙って箸と口を 動かしていた。 「あれ? 怒った? やだなー、来生君。軽い冗談に 決まってるじゃんかー」  中沢は笑いながら、バシバシと俺の背中を叩く。 「…げほっ。叩くなよ、食べてんだから」 「わりっ」  本気で悪いと思っている風もなく軽く右手を上げ、 人なつこい顔でニコニコ笑っている中沢。  こいつとは、入学して間もない頃、一般の授業で声 をかけられて以来の付き合いだ。 『来生君って、なんか影があってカッコイイねっ』  満面の笑顔でそう言った中沢を、最初のうちはゲイ なんじゃないかと警戒したものだ。  だけど、中沢は誰に対してもそんな風だった。  誰にでも気安く声をかけ、ヘラヘラと笑いながら、 人の輪に入っていく。  一方、俺はと言えば、決してとっつきのいい方では ない。  子供の頃は周りの目を気にして、必要以上に目立つ 行動はしないようにしていた。  その癖は、今になっても抜けない。  親しくなれば、家族のことなど、触れられたくない 部分まで知られることになりかねない。  多分、それを無意識に恐れているのだろう。  俺はどうしても他人と距離をとってしまうのだ。  さらに、つきあいも良くない。  家の中で唯一の男手である俺が、若い女しかいない あの家をほったらかしにして、遅くまで飲み歩くよう な真似は、到底できないからだ。  だから、俺にとっての学園生活というものは、適当 な顔見知りと、適当に挨拶などをかわしながら、ただ 通りすぎていくだけのものだった。  しかし中沢という男だけは。  俺が、どんなによそよそしくふるまおうが、一向に 気にする様子はなかった。  いくら迷惑そうな顔をしても、平気で能天気に声を かけてくる。  …そうだ。最初は迷惑だと思っていた。  だが俺は、自分にはない中沢の明るさと軽やかさを 次第に好ましく思うようになった。  一見チャラチャラした、いかにも軽そうな中沢だが、 実はめちゃくちゃ頭が切れる。  今から、卒業後も学校に残って研究を続けないかと 教授に誘われ、有名企業からもいくつか声がかかって いるらしい。  そんなに頭のいい中沢が、何の考えもなく無防備に 能天気な学生をやっているとは思い難い。  奴の浮ついた言動は、ともすれば近づき難くなりそ うな自分をカムフラージュする為なのかもしれない。  だから、彼に奇妙な親近感を感じるのだろうか。 「いいなぁ。おいしそうだなぁ。僕も食べたいなぁ」 「弁当に覆い被さられると、食えないんだけど」 「あっ、よだれ垂れちったぁ。唐揚げに」 「……わかったよ、食えよ」 「わーい。さんきゅっ」  ……やっぱり、天然かも。 「…待て。誰が卵焼きまで食っていいと言った」 「もぐもぐ。…返そっか?」  んば、と口をあけて、咀嚼されつくした、かつて卵 焼きだったものを見せる。  酸っぱいものがこみ上げそうになり、あわてて目を そらした。 「あ、食欲なくなっちゃった?」 「誰のせいだ?」 「もったいないから、僕が食べてあげるねぇ」 「結構です」 「そう遠慮すんなよう」 「お前は少し遠慮しろ!」  ほとんど奪い合いになりながら、俺達は、かすみの 弁当を食べ尽くした。 「ただいま」  弁当箱を返そうと思いキッチンを覗くと、さやかが 冷蔵庫の中を物色していた。 「あれ、かすみは?」 「買い物」  さやかは、牛乳をコップに注ぎながら、そっけなく 答える。 「…なに?」  俺が持っているハンカチにくるまれた物を凝視して 不審そうに聞いてくる。 「いや…かすみに弁当作ってもらったから、弁当箱を 返そうと思って」 「お弁当?」  意外そうな顔で、聞き返された。 「持って行ったの? 兄貴が?」 「なんだよ。そんなに不思議か?」 「不思議」  真面目な顔で頷く。 「そういう世話の焼かれ方、嫌いだと思ってた」 「…まあな」 「高等部に伝説残ってるし」 「伝説?」  なんだ、それは。 「女の子からもらった手作りのプレゼントを、窓から 捨てたとか足で踏んだとか焼却炉で燃やしたとか」 「してねーよ! そこまで酷いことは!」 「…多少は酷いことしてたんだ」 「うっ…」  しまった。否定できない。  その場でつき返したり、面と向かって「迷惑だ」と 言ったことがあるのは事実だ。  そのおかげで、クラスの女子全員を敵に回したりも したが、逆に構われなくなってほっとした記憶も。 「でもなあ…。よく知りもしない女が作った弁当だの お菓子だのって、なんか恐くないか?」 「恐い?」 「何が入ってるか、分かったもんじゃない。その点、 かすみが作ったのなら安心だろ」  呆れたような顔をするさやか。 「…なんだよ?」 「かすみだって、変なもの入れるかも」 「可能かどうか、っていうならそうだけど。かすみが そんなことするわけないだろ」  さやかは脱力したように天を仰ぐ。 「兄貴って……ま、いいけど。…あ、おかえり」  スーパーの袋を両手に下げたかすみが戻ってきた。  荷物からなにやら紙袋を取り出して、さやかに渡し ている。 「頼まれてたものですけど、これでいいですか?」 「ん、これでいい。ありがと」  紙袋の中を覗いてからそれを受け取ったさやかは、 さっさと背を向けてキッチンを出て行く。 「何を頼まれてたの?」 「い、いえっ。別に、その、たいしたものじゃ…」  赤くなってうろたえるかすみ。  なんだ? 言えないようなものなのか? 「兄貴、セクハラ」  さやかが、ドアからひょいと顔だけ出して、そんな ことを言う。 「いや、俺は別にそんなつもりじゃ…」  がさがさと袋から取り出したものを、俺の方に向け 振って見せる。 「これ」  その箱には――『タンポン』という大きな文字が、 パステルカラーで躍っていた。  さやかはあっけらかんとしたものだ。  むしろ、こっちが赤面してしまう。 「ご、ごめ…悪かった。しまってくれ、早く」 「見たことある? 興味あるなら1本あげようか?」 「要らんっ! いいから早くしまえってば」  かすみが苦笑する中、俺は、さやかの逆セクハラを 受け続けた。  夕食後、いつものようにかすみの部屋に行く。  しかし、明日提出のレポートがまだ少し残っており 今日はあまり長い時間つきあえそうにない。  なので、ちょっと趣向を変えてみよう。  俺はある本を携えてかすみの部屋に入った。 「かすみ、本が好きだろ?」 「はい…?」  血は争えないな、と思う。  ちはやほどではないにせよ、国語の教科書を繰り返 し読んでいるかすみにも、本読みの血が流れている。 「はい。これ、貸してあげるよ」 「…『不思議の国のアリス』」  タイトルを声に出して読んでから、かすみは、興味 深そうにパラパラと頁をめくる。 「さし絵もたくさん…おもしろそうです」 「うん、面白いよ。きっとかすみも気に入ると思う。 ちょっと貸して」  俺はかすみの手から本を取り、目的の頁を探す。 「あった。これこれ、誰かに似てると思わない?」 「…え?」  かすみは目を丸くして開いた頁をのぞきこむ。 「あ…!」 「…ね?」  二人でクスクスと低く笑い合う。  そこには、卵に目鼻がついたような『ハンプティ・ ダンプティ』のイラスト。  初めてかすみと会った時、彼女を連れていた男に、 俺が抱いた第一印象。 「…そっくりです」  笑いをこらえたような声で、かすみが再び頁に目を やる。 「だろ? 特にこの腹のあたりなんかそのまんま」  かすみはこらえきれず、はじけたように笑い出す。 「あはははっ、もう…お兄様ったら」  目尻ににじんだ涙をぬぐいながら、明るい声で笑う かすみ。  その顔を見ていると、自然と俺の顔にも、微笑みが 浮かぶ。  このままいつまでも幸せな毎日が続けばいい。  かすみの笑顔を見ながら、心からそう願った。  その後、俺は早々に自分の部屋へ戻って、レポートを仕上げてから床についた。