布団の中で、自然に目が覚めた。  ぐっすり寝て、気分は爽快だ。  俺は目覚まし時計を止めておこうと、目をやった。 「……うん?」  電池が切れて止まっているのかと思い、同じく枕元 に置いて充電していた携帯電話の電源を入れる。 「………」  携帯の時計表示を眺めて10秒ほど気を失っていた 俺は、慌てて跳ね起きた。 「あ、お兄様…」 「ごめん、時間ないっ!」  なにか言いかけるかすみを制して、俺はバタバタと 慌しく家を出た。  学校に着き、研究室の前でカバンから今日提出する レポートを取り出そうとして、俺は蒼白になった。  …ない!  この講義は試験がなく、レポートだけで成績が決 まってしまう。  しかも、この教授は提出期限を一秒でも過ぎること を許さず、提出しなかった者は容赦なく落第させる。  提出期限まで残り30分を切っている。  もし、今から取りに戻ったとしても、ぎりぎり間に 合うかどうか…。 「ええと、机の上ですね…。見てきます」  その言葉の後、受話器から、保留のメロディが流れ はじめた。  かすみが家にいてくれて、良かった。   もし買い物にでも出かけていて、誰もいなかったら と思うと、ぞっとする。   しばらくして、メロディが途切れる。 「お待たせしました。あの、これでしょうか?」  かすみが読み上げたタイトルは、正に俺が苦労して 書き上げたレポートのものだった。 「そうそう、それ! よかった、家にあって」  いや、まだほっとしている場合じゃない。 「悪いんだけど、それ、大至急届けてくれないかな」 「あ、はい。でも、あの…。わたし、場所がよく…」 「タクシー使っていいから。すぐタクシー呼んで」 「わ、わかりました」 「じゃあ、大学の正門の前で待ってるから」 「は、はい」 「急いで」 「はいっ」  電話を切って、道が混んでいないことを祈りながら 俺はかすみを待ちうけるべく、正門に向かった。  タクシーなら10分もあれば着くはずだ。  とはいえ、かすみのことだ。  家の戸締りなどを必要以上に厳重にしている可能性 もないとは言えない。  俺は心もとない気持ちで、時計をにらむ。  イライラと立て続けに数本の煙草を灰にし、新たな 1本に火をつけようとした時だった。 「…お兄様ーっ」  ん…?  車が到着した気配はない。  そもそも、なんか声が遠いような気がする。  俺は声のした方に振り向き…。 「きゃあっ! どいてくださぁぁい!」  ガッシャーーーン!  カラカラカラ… 「ご、ごめんなさいっ! お兄様、大丈夫ですかっ」 「…なんとか」  振りかえった時には、自転車に乗ったかすみが、猛 スピードで突っ込んできていた。  避けると門に激突しそうだったので、なんとか止め てやろうとしたが、やっぱり無理だったようだ。 「それより、怪我はない?」 「大丈夫です、急がなきゃって思って、わたし…」  そうだ! 時間! 「とりあえず提出してくる! ここで待ってて!」  俺はレポートを受け取り、構内へと走った。  なんとかレポートの提出を無事に済ませ、再び校門 へと向かう。  しかし、自転車で来るとは、予想外だった。  しかも、あの暴走ぶり。  意外な一面を見たというべきか。  バイクが欲しいとか言い出さないことを祈るぞ。 「ごめん、お待たせ」 「あ、あの…間に合いましたか?」 「うん、おかげさまで。助かったよ、ありがとうな」  クリクリとかすみの頭を撫でてやると、嬉しそうに にっこり笑う。 「お礼に、昼飯おごるよ。といっても、学食だけど」 「あ、いえ、あの…」  かすみは自転車の前カゴから、見覚えのある包みを 取り出す。 「今朝、お兄様急いでらしたので、お渡しできなかっ たんですけど…」  今日も弁当を作ってくれてたのか…。 「よし、それじゃ、一緒に食べよう」 「え? でもひとり分しか…」 「そっか…。じゃあ、足りない分は、コンビニで何か 見繕ってくるから」 「でも…」  言いよどむかすみを中庭に引っぱって行き、ベンチ に座らせておいて、俺は近所のコンビニへと走った。 「はい、お茶」  コンビニで買ったペットボトルのお茶を渡す。 「あ、ありがとうございます…」  かすみはおどおどと周りを見ている。 「あ、あの…」 「ん?」 「あの、あの、わたしなんかが、中に入ってもいいん ですか…?」  そんなことを気にしてたのか。 「平気、平気。わかりゃしないよ」 「でも、あの、怒られないですか…?」  …どうしても気になるようだ。 「そうだな…。部外者だとばれたら逮捕されるかも」 「え…ええっ?」 「でもその場合、かすみを入れた俺がつかまるだけだ し、せいぜい懲役5年ってとこだろ」 「そ、そんなっ…」  かすみは、今にも泣きだしそうになる。 「ごめん、冗談」 「…っ! ひどいですっ、お兄様ったら!」 「悪かったってば! いて、こら、殴るなよ」 「ほんとに、ほんとに、大丈夫なんですね?」 「大丈夫だってば」  真顔で念を押すかすみが可笑しくて、俺はまた彼女 の頭をクリクリと撫でまわす。 「ほんとにかすみは、素直だなぁ」 「…もう。知りませんっ」  拗ねてプイと横を向き、弁当の包みを解き始める。  食べている間も、かすみはもの珍しそうに、周りを きょろきょろと見まわしている。 「そうだ、なんでタクシーで来なかったの?」 「あ…電話したら、今みんな出払ってて、少し時間が かかると言われたので…」 「そっか。悪かったね。道、分かった?」 「はい、あの、地図を持ってきました」  かすみはゴソゴソと地図を取り出して見せる。 「面倒かけたね。でも助かったよ」 「いえ、そんな…お役に立ててよかったです」 「そういえば、自転車乗れたんだね。知らなかった」 「え…」  かすみの顔が、赤くなる。 「いえ…あの…練習中で…」 「え?」 「庭で、練習してるんですけど…。まだあんまり上手 に乗れなくて…。それで、さっきも止まれなくて…」  そうだったのか…。  それなのに、俺のためにわざわざ自転車をとばして 来てくれたのか。  恐かっただろうに。 「そうか…。ほんとに、ありがとうな」  恥ずかしそうなかすみの目を見つめて、もう一度、 お礼を言う。 「帰りは急がなくていいから、気をつけてゆっくりと 帰ってくれよ」 「あ、はい…」  素直にコックリとうなずく。  くーっ! この素直さが、たまらなく可愛いぞ!  俺は、またしてもかすみの頭を、クリクリクリクリ 撫でまわしてしまう。 「お、お兄様っ、髪が…」 「あ、ごめんごめん」 「…さっきから、食事が全然進んでいません」 「そうだな。よし、食べよう」  俺とかすみが、弁当に箸をのばした時。  にゅ。   突然、後ろから手が伸びてきて、卵焼きを掴んだ。 「きゃあっ!?」  かすみが驚きの声を上げ、俺に抱きつく。  が、手の持ち主の予想がついていた俺は、すかさず その手を取り押さえた。 「なーかーざーわー」 「あ。ばれた?」  中沢は、ヘラヘラと笑いながら頭を掻いた。  かすみはまだ俺に抱きついて、震えている。 「あら。そんなに驚いた? ごめんね?」 「かすみ。大丈夫、俺の友達だ」  ようやく、おずおずと顔を上げる、かすみ。  中沢は、そんなかすみの顔を覗きこんで、にっこり と微笑んだ。 「……!」  しかし、それを見たかすみは、また脅えたように、 俺にすがりついてしまう。 「うーん…。恐がらせちゃった?」 「まあ、あんまり他人に慣れてないから…」 「ちぇ。せっかく邪魔してやろうと思ったのに」 「え?」  まさか、こいつ勘違いしてるんじゃないだろうな。 「昼間っから学校でイチャイチャしてるからさー」 「バカ、違うって、この子は…」 「この、ロリコン」  だから、違うってのに。 「あのな、この子は俺の妹だ」 「へ?」  ぽかんと口を開ける中沢。 「ああ…そっかー。なあんだ。どおりで、来生と良く 似てると思ったあ」 「…調子のいい奴だな」  つーか、片親しか一緒じゃないし、実際はあんまり 似てないぞ。 「そっかー、妹かあ。可愛いなあ、いくつ?」 「いいだろ、そんなのどうでも」 「彼女がお弁当作ったの?」 「そうだよ。今日はやらんぞ」 「ケチ。昨日の美味かったなー。今日のも美味いんだ ろうなー。いいなー」  どうやら中沢は離れてくれそうにない。  弁当は少し残っているが、さっさと家に帰した方が よさそうだ。 「かすみ、そろそろ帰るか?」 「…は、はい」  少しは落ちついた様子で、弁当箱を片付け始める。 「えー、なんでー? いいじゃん、少し話させてよ」 「だめ」 「なんでさー。減るもんじゃなし」 「だめ。減る」  中沢なんかと話したら、悪影響がありそうだ。  てきぱきとその場を片付け、校門に向かう。 「ちぇー、話したかったのになー」 「…なんで、お前までついて来てんだよ」 「やー別に。お見送りっス」 「……」  かすみは終始無言だ。 「じゃあ、かすみ。気をつけて帰るんだぞ」 「…はい」 「またねえ、かすみちゃん」  ぺこり、と頭を下げて、自転車に乗って帰って行く かすみを、なぜか中沢と並んで見送る。 「ねえ、来生くん」 「…なんだ」 「この、シスコン」 「……」  …まあ。否定はしない。 「あ、みさとちゃん、今日あのドラマの日だよ」 「ほんとだ。テレビ、テレビっと…」  夕食後のリビング。  ちはやはソファで本を読み、さやかはダンベルを 持ってトレーニングにいそしむ。  ひなたとみさとは、お気に入りのドラマを見ながら きゃあきゃあ言っている。  いつもと変わることのない風景。  洗い物をすませてリビングに入ってきたかすみが、 ひなたにつかまる。 「ねえ、かすみちゃんも一緒に見よう」 「え…? で、でも…」 「ほらほら、この人がかっこいいんだよー」 「あ、はい…でも、あの、わたしお勉強が…」 「えー、そんなの後でいいよねえ、お兄ちゃん?」  俺は、読んでいた雑誌から目を上げて、答える。 「ん? ああ、べつに構わないよ。毎日決まった時間 にしなきゃいけないわけでもないしさ」 「ほら、いいって。はい、ここ座って」 「は、はい…」 「あのね、この人とこの人が恋人どうしなのね」 「うるさいよ、ひなた。今いいところなんだからっ」 「かすみちゃんに説明してるだけだよ〜」 「見てればわかるわよっ」 「あ、あの…けんかしないでください…」  かすみは、目を白黒させて、ひなたとみさとの間で オロオロしている。  そんな騒ぎをよそに、ちはやは相変わらず本に没頭 しているし、さやかは黙々とトレーニングを続ける。  今日も我が家は平和だ。  10時を少しまわった頃、かすみの部屋のドアを ノックする。 「どうする、かすみ。今日はもうやめようか?」 「え? いえ、大丈夫です」  かすみは少し眠そうに目をこすっている。 「そう? 今日は昼間も疲れただろ?」 「はい…でも…大丈夫です」  まあ、そう言うのなら…。  俺はいつものように、机にノートを広げた。 「…かすみ?」  かすみは、ぼんやりとした目で中空を見ている。  目の前で手を振ってみる。 「…はい?」  ゆっくりと俺の方を振り向く。  やっぱり、相当眠いんじゃないのか? 「大丈夫? なんかぼーっとしてるけど」 「あ…はい…。なんだか、幸せで」 「え?」  かすみは夢見るような口調で続ける。 「さっき、ひなたお姉様やみさとさんと一緒にテレビ を見ていて、わたしも家族なんだなあって思って…」 「当たり前だろ。かすみは家族なんだから」 「そうですよね…。そうなんですよね…」  かすみはまっすぐに俺を見つめる。 「わたし、この家にいて、いいんですよね…?」 「何言ってるんだよ…。当たり前じゃないか」 「…お兄様、大好きです」  とさっ。  突然かすみが腕の中に飛び込んできた。 「お姉様たちもみさとさんもジョンも…大好き」  すがりつくように、ぎゅっと俺のシャツを握って。 「いつも思うんです…。もし、この生活が夢で…目が さめたら前のお屋敷だったらどうしよう、って…」 「かすみ…」 「幸せだから…こんな幸せなこと、知らなかったから 少し恐いんです…」 「バカだな…。かすみはずっと家にいていいんだ」 「ほんと…ですか…?」 「ほんとだよ。かすみがお嫁にいくまで、ずっとだ」 「わたし…お嫁になんか、いきません…」 「何言って…」 「わたしは…ずっと…お兄様の…側に……」  気がつくと、かすみは寝息を立てていた。  やっぱり、疲れてたんだな。  俺はかすみを抱き上げて、ベッドに寝かせる。 「お嫁になんかいきません…か」  少し切なくなった。  兄というより、父親の気分に近いかもしれない。  俺は、かすみの寝顔を見ながら、しばらくその髪を 撫でていた。