◆来生家のバレンタイン・デー◆  和馬は甘い香りに誘われて目が覚めた。  その香りは、枕元にあった綺麗にラッピングされた 包みから漂っていた。 「…ちはやだな」  毎年のことだから、今更驚くことはない。  ちはやは必ず、他の妹たちの前ではなく、こうして 夜中にこっそりとチョコを置いていく。 「あいつ、絶対クリスマスと混同してるな…」  ペリペリと包みを開くと、有名な洋菓子店のチョコ と、毎年恒例になった、ちはやおすすめの本が一冊。 「サンキュ」  和馬は、ちはやの部屋に向かって、小さく呟いた。  和馬が欠伸をしながら階段を降りていくと、さやか が玄関で靴をはきかけていた。 「早いな。もう行くのか?」 「ん…。朝練」  さやかはちらりと和馬の方を見たが、すぐに何事も なかったような顔でスニーカーの靴紐を結びだした。  その様子をその場で見守りながら、和馬は、さやか からは貰えないかもしれない…と考えていた。  靴をはき終えたさやかが、カバンを持ってすっくと 立ち上がる。 「いってらっしゃい」  手を振る和馬を、じっ…とみつめる、さやか。 「……」  おもむろにポケットから小さな包みを取り出す。 「…え?」 「チョコ」  さやかは、そっけなくそう言うとすぐに背を向け、 ドアを開ける。 「じゃ」 「うん、気をつけて。ありがとうな」 「ん…。行ってきます」  笑顔の和馬を見て、少し肩をすくめると、さやかは 学校へと歩き出した。 (あんな捨てられた犬みたいに寂しそうな顔されたら、 あげないわけにいかないじゃん…)  さやかは早足で歩きながら考えていた。  あの家では、みんなが当然のように和馬にチョコを プレゼントしている。  子供の頃は特に疑問にも思わず、ちはやがそうする のに倣ってチョコを渡していた。  だが、中学に入った頃――つまり同級生たちが本気 でこの日に取り組みだした頃から、さやかはこの家は 少し変かもしれない、と思いはじめた。 (兄貴がモテなくて、誰からも貰えそうにない、とか いうのならともかく…)  高校の頃から毎年この日には、うんざりした顔で、 荷物を抱えて帰ってくる。  だから、「もういいかな…」と思い、一度何の用意 もしなかったことがある。  その時の和馬の落胆ぶりときたら相当なものだった。 (まあ、義理チョコくらいであれだけ機嫌が良くなる んなら、安いもんだけど)  考え事をしながら歩いていたせいで、うっかりバス 停を通り過ぎてしまっていた。 (……いいや。学校まで走ろう)  軽く屈伸して、走り出す。 (それにしても、兄貴、甘いもの苦手なくせにな) 「…お前の気持ちは、よーく分かった」  同じ頃。  来生家の玄関では、包みを開けた和馬が、袋の中の チロルチョコ3個をにらんで憮然としていた。 「あ、おはようございます」 「おはよ、お兄ちゃん」 「おっはよー、和馬!」  三人三様の挨拶を受けて、和馬は機嫌良く席につく。 「あの、お兄様…」  かすみがうやうやしく和馬の前に、フードのついた 皿を置く。 「ん、なに? 今日の朝食はスペシャルなの?」  わくわくしながら、フードを取る。 「……」  そこには、巨大なチョコレートケーキが鎮座ましま していた。 「ザッハトルテです。初めて作ったので、うまくでき たかどうか分からないんですけど…」 「あ…そ…それはどうもありがとう…」  かすみは期待に満ちた目をして和馬のリアクション を待っている。 (…まさか、今これを食えと?)  いつも騒いでいるひなたとみさとも、黙りこくって 成り行きを見守っている。 (食わないわけには…いかない…) 「そ、そうだ! 切り分けないと、な!」  とりあえず、小さめに切って、それだけ食おう。  そう思って和馬は明るく提案した。が。 「いえ、これは丸ごと全部お兄様のものです。どうぞ お好きなように、お召し上がりください」  和馬の笑顔が引き攣る。 「いいなあ、お兄ちゃーん。ケーキ丸ごと自分のもの なんて、女の子の夢だよぉ」  心底羨ましそうなひなた。 「そのままフォークをブスッと刺して、バクッとかぶ りつくのよっ!」  能天気に煽るみさと。  和馬の背中を冷や汗が流れる。  なにが悲しくて朝からケーキを食わにゃならんのだ。  俺はどちらかといえば甘いものは苦手なんだー!  心でそう叫んで、和馬は天を仰いだ。 「…うぷっ」  口に残ったくどいような甘ったるさをなんとかしよ うと歯ブラシを口にくわえた瞬間、和馬の胃液が逆流 しそうになる。  結局10等分したケーキを、和馬はなんとか一切れ 食べきった。 「かーずまっ」  いつのまにか、みさとが後ろに立っていた。 「なんだ?」 「はい、これっ」  ぽすん、と和馬の腹のあたりに何かを押しつける。 「…ああ。ありがとう」  恐らくチョコだろう。  和馬は、こみ上げる胃液に逆らって笑顔で受け取る。 「…それだけ?」 「は?」 「このあたしが、バレンタインデーにチョコをあげて るのよ?」  明らかに不服そうなみさと。 「学校の男なら、泣いて喜ぶところよ? あたしは、 プレゼントを貰うことはあっても、あげることなんか 滅多にないのよ?」 「はぁ…」 「和馬だから、特別にあげてるんだから。そこんとこ わかってほしいのよね」 「はい…感謝していただきます」 「わかればいいの。じゃ、いってくるから」 「はい。いってらっしゃい…」  みさとは機嫌を直して、鼻歌まじりで出ていった。 「お兄ちゃん」  入れ替わるようにひなたが洗面所に顔を出す。 「はいはい」 「今日の夕食はわたしがバレンタイン・スペシャル・ ディナーを作るから、早く帰ってきてね」  なんとも可愛いことをいうひなたに、思わず和馬の 頬が緩む。 「ん、わかった」 「楽しみにしててね。じゃ、いってきまーす」  しかし、ひなたは料理ができたのだろうか?  和馬の胸を一抹の不安がよぎった。   「ひなたお姉様はお料理、お上手ですよ。心配は要ら ないと思います」 「そうか…」  ほっと胸をなでおろす和馬。  かすみが洗い物をしている横で、みさとにもらった 包みを開ける。 「……」  そこからは、どこかで見た覚えのあるものが現れた。 「…あんだけ偉そうに言っておいて、これかよ」  箱からコロン、とチロルチョコが転がった。  …なんで俺の妹はこうも両極端なのだろう。  人間の不思議に思いをはせる和馬だった。  その夜。  ひなたは誰も台所に立ち入らせず、ひとりで夕食を 作っていた。 「お兄ちゃん、お待たせ〜」  その声に招かれ、みんなでダイニングに入る。 「うっ?」 「げげっ」  食卓を目にして、ひなた以外の全員の動きが止まっ た。 「ひなた…これ、なに?」  恐る恐るといった様子で、ちはやが訊ねた。 「ひなたのバレンタイン・スペシャルだよっ」  自信まんまんで答えるひなた。  が、食卓の上は、正体不明の謎の茶色い物体で埋め 尽くされていた。 「えっと、これがねぇ、チョコレートのスープでねぇ、 こっちはチョコがけバナナのマヨネーズ炒め。それで これがメインの牛ひれステーキのチョコレートソース がけ。つけ合わせはね、ジャガイモと人参のグラッセ ココアまぶしだよ〜」  誰もが言葉をなくしていた。 「そうそう、ごはんは、キスチョコの混ぜご飯にして みたんだよ〜」 「…ひなたさぁ。これって味見してみた?」 「うん。だいじょうぶ、おいしいよ?」 「……」  ダイニングをもわ〜んと漂う甘いチョコの香り。  和馬は今にも吐きそうな気持ちを押さえて、笑顔で フォークを取る。 「お…おいしそうだよ。ありがとう、ひなた」  全員の目が見守る中、和馬は意を決してそれらを口 に運ぶ。 「……」  もぐもぐもぐ…ごっくん。  無理に笑顔を作った和馬は、何か言おうとしたもの の、青い顔で椅子のまま後ろに倒れていった。 「料理の腕に問題はないんですけど。ああいう突飛な 発想をなさるとは、思っていませんでしたから…」  後にかすみはこの時の事を振り帰って、そう語った。 END