部屋に戻って一眠りして起きたら、既に時間は9時 をまわっていた。  さやかやひなた、みさとは、もう学校へ行ったこと だろう。  俺は、どうやってちはやとかすみに謝ろうか、思案 しながら階段を降りた。 「おはよう、兄さん。パン、焼く?」  実際、それは拍子抜けするくらいの普通さだった。 「…兄さん?」 「あ、ああ。うん。頼むよ」 「OK」  ちはやは鼻歌まじりでトースターにパンを入れる。  …そういや、いつだってこうだったかもしれない。  どんなに大喧嘩しても、一晩寝て起きれば元通り。  あえてほじくり返したりしなければ、何もなかった かのように、日常は続いて行く。  あるいは、日常を続かせるためにこそ、俺たちは、 いろいろなことを忘れようと努力するのだ。  なのに、俺はうっかりそれを口にしてしまった。 「もう怒ってないのか…?」  ちはやが無言で振り返る。  …しまった。 「…本当に、聞きたい?」  にっこり笑うちはや。 「い、いや、その、別に…。わ、包丁をこっちに向け るなよっ!」 「今回は、忘れてあげるわ。二度目はないわよ?」 「うん…ごめん。でも、別に変なこと考えてたわけ じゃないぞ?」  ちはやは、いたずらっぽく笑う。 「どうかしらねぇ?」 「ほ、ほんとだって! あの時はちょっと考え事して ただけで、だから…」 「兄さんったら、冗談よ。そんな必死にならなくても いいのに」  チン、という音がして、パンが焼き上がる。  ちはやは、少し焦げ目のついたトーストにバターを 塗って、俺の前にそれを置いた。 「…そういえば、かすみは?」 「ちょっと熱があるみたい。本人は平気だって言うん だけど、すごく顔色悪いし、休むように言ったの」 「熱? 大丈夫かな…」 「まあ、疲れが出たんじゃないかしら。心配なら、後 で様子を見に行ってあげれば?」 「…そうだな」  昨日の件で、もう嫌われてるかもしれない。  それでもやっぱり心配してしまうのは、身勝手かも しれないが本当のことだった。  なるべく小さく、かすみの部屋のドアを叩く。  返事はない。やはり眠っているようだ。  静かにドアを開け、かすみの様子をうかがう。  ちはやの言う通り、熱があるのだろう。顔が赤い。  俺は、ちはやから預かった熱冷まし用のシートを、 かすみのおでこにそうっと貼り付ける。 「ん…」  かすみが小さく声をあげた。  起こしたかな、と思い、慌てて手を離す。  が、目を覚ましたのではなかった。  眠ったまま、わずかに眉根をよせると、ごそごそと 布団をずり下げはじめる。  きっと、熱のせいで暑いのだろう。  俺は窓を少し開けて外の風を入れながら、しずかに 布団を掛け直す。  すると、今度は足で布団を蹴ってしまう。  意外とやんちゃな寝相に苦笑しながら、またそれを 掛け直す。  これは、しばらくついててやらなきゃ心配だな。  そういえば、さやかやみさとがまだ小さかった頃も よくこうして布団を直してやったな…。  こんな風に眠っているかすみを見ていると、この子 は本当にまだ子供なのだと思う。  昨日の自分の大人げのなさが、心底恥ずかしい。  俺はこの子を守ってやるべき立場なのに。  初夏の爽やかな風が、レースのカーテンを揺らす。  心地よい郷愁に包まれて、俺はしばらくその場で、 かすみの寝息を聞いていた。  今日はもうサボろうか…と考えていたが、ちはやに 追い立てられ、やむなく家を出た。  中途半端な時間のせいだろうか。  バスもなかなか来ない。  ……どうにもかったるい。  かすみが心配だというのもあるにはあるが、今日は 大学に行く気にはなれなかった。 「…やっぱ、サボろう」  俺は踵を返して、今来た道を戻る。  とはいえ、今、家に帰ってもちはやに怒られるのは 目に見えていた。  俺はしばらく時間をつぶすために、駅に向かった。  駅ビルで本屋をのぞいたりゲーセンに行ったりして 無為に時間をつぶしていると、 「あらっ、こんにちは!」  見覚えのある女が声をかけてきた。 「あれ…店長?」  かすみの服を買った、あのブランド店の店長だ。 「学生さんが、こんな時間になにしてるの? さては サボりだな〜?」 「はは…店長こそ」 「失礼ね、あたしは正当な休暇よ」  そういえば、店ではいつもパリッとしたスーツ姿の 人なのに、今日はジーンズに綿のセーターというラフ な服装だ。 「そういう格好もするんだ」 「プライベートだからね。毎日スーツじゃ肩が凝って しょうがないのよ」  スーツの時は、いかにもキャリアウーマンといった 雰囲気で、それはそれでそそられるのだが。 「そういうのも、なんか新鮮…かな」  ニットごしの形のいい胸に目を奪われながら呟く。 「…やだもう。どういう意味よ、スケベ」 「って、どっちが?」  顔を見合わせて、どちらからともなく淫靡な笑みを 交わす。  店長の手がさりげなく俺の股間に触れる。 「…ねえ。時間あるんでしょ?」  そう。俺たちは、そういう関係だった。 「このへんに住んでたんだ?」 「最近ね。越してきたの。店にも近いし」  駅を挟んで俺の家とちょうど反対側、新築で明るい マンションの一室。 「ふぅん。それって、単なる偶然なのかな?」  俺は彼女の店の顧客だ。  DMなども来るのだから、当然俺の住所は店の顧客 台帳に記載されている。 「ふふっ…どうかしら?」  店長は艶然と笑って着ているニットに手をかける。 「ちょっと待って」 「え?」  セーターを捲くりかけた手が止まる。 「脱がせる楽しみを俺から奪わないでよ」  俺は彼女の腰を引き寄せた。  店長と最初に寝たのは、いつだっただろう。  たしか、俺がまだ高校生の時だ。  ちょっと背伸びして彼女の店を訪れた俺をすかさず 食っちまうんだから、相当悪いお姉さんだよな。    背後から抱き締めて、深いVネックのセクシーな胸 元から手を滑りこませる。 「…あれ?」  直接手に感じる、柔らかい感触。  ツンとした突起。 「まさか、ずっとノーブラだったの?」 「うふん。だって、こういうザックリしたニットだと 分からないでしょ?」  彼女の手が後ろに回ってきて、もどかしそうに俺の ジーンズに覆われたペニスを撫でる。 「スケベだなぁ。知ってたけど」  俺は苦笑しながら、すでに固くなっている乳首を指 で摘み上げた。 「あぁん…」 「ノーブラで胸を揺らしながら街を歩いて、男に視姦 されるのを楽しんでたんだろ?」 「いや…そんなこと…あふっ」 「誰かに見られてるって思うだけで、乳首が立って、 あそこがびしょ濡れになるんだろ?」 「そんな…そんなこと、んっ…ない…」  こうして言葉で攻めるだけで、もう腰をビクビクと 震わせている。 「本当かなぁ?」  俺は右手で胸を愛撫しながら、左手をセーターの裾 にもぐりこませる。  ベルトはしていない。かなり大胆なヒップハングの ジーンズは、ヘソどころか腰骨まで露出している。  固く尖った乳首を掌で転がしながら、ジーンズの ファスナーを下ろし腰骨を撫でさすると、店長の腰が ガクンと崩れる。 「あぅん…も、だめぇ…」 「こんなとこでも感じるわけ? …じゃ、ここは?」  ジーンズをずり下げ、薄いショーツの上から、彼女 の大事な部分に指を這わせる。 「ふぁ…!」  くちゅ、と湿って音がして、濡れた生地が肌に張り つく。 「もうこんなじゃない。やっぱり、見られて濡らして たんだ」 「ちが……いま、触られてるから…あんっ」 「今? 今のだけでこんなになったの? 嘘だね」 「ひあ…っ!」  ショーツの中に手を入れて、すでに固くなっている クリトリスを指で撫で上げる。 「ああっ! そこ…そこいいのぉ、もっとぉ」 「いいの? ここ? ここがいいの?」  クリクリと指の腹でそこを嬲る。 「あ、あ、あ、いいっ、いいのっ」  店長の腰が、何かを求めるようにいやらしく動く。  だが俺は、そこで手の動きを止めた。 「あ…やだ、やめないで…」 「嘘つきなひとには、してあげない」  店長が振り返って、恨みがましい目つきで俺を見上 げる。 「そんな…」 「ちゃんと、本当のことを言ってよ。ノーブラで街を 歩いて、濡らしてたって」 「う……」  腰をもぞもぞと動かし、視線を落とす店長。 「……してました」 「え? よく聞こえないなぁ」 「ぬ、濡らしてました! エロジジイに胸をジロジロ 見られて、そしたら乳首が立ってきちゃって、それが 擦れて感じちゃって、あそこも濡れてきちゃって…」  堰を切ったように恥ずかしい告白をする店長の唇を 俺のそれで塞ぐ。 「ん…んんっ」  唇を離すと、透明な糸が一筋つうっと伝った。 「よくできました。ごほうびだよ」  俺は再び指をショーツに潜り込ませる。 「んあっ…! ああ、そこぉ…っ」  親指でクリトリスを弄りながら、潤みきったところ に中指を差し込む。  店長は首を仰け反らせてひときわ高い声をあげる。 「ああっ…ゆび…もっと」 「もっと? こう?」  中に沈めた指を激しく動かす。 「あんっ、いい…。ねえ、ゆび、1本じゃイヤ…」 「…欲張りだなぁ」  苦笑しながら、俺は人差し指も突っ込んだ。 「ああん! もっと、ほしい…」 「いいのか? ひろがっちゃうぞ」 「いいの、ひろげてぇ…いっぱいにしてぇ」  まったく…。  珍しく俺が主導権を握ったはずだったが、いつでも 結局は彼女の思い通りに動かされるんだよな。  俺は差しこんでいた指を一旦引き抜き、人差し指、 中指、薬指を揃えて一気に突き入れた。 「はあんっ! ひろがるぅっ!」  きゅうきゅうと指が締めつけられ、指の隙間から、 愛液が滴り落ちる。 「あ、イく…イっちゃうぅ…!」  ぎゅっと両足で俺の手を挟みこみ、ぶるっと下肢を 震わせる。 「い、痛て…ちょ、ちょっと!」 「ああっ、いいわっ、イってるぅ、イってるのぉっ」 「あのな、それはわかったから…」 「いやぁ、きもちいいのぉ」 「痛ててて…手が攣りそうだから、離してくれぇ」  必死に腿の間から手を引き抜く。 「ってー…」  トロリと透明な液体が手を伝う。 「あぁん、もう…。ん…」  店長が滴り落ちるそれを、舌で舐めとる。 「…美味しいか?」 「ん…ちゅ…すっごくエッチな味」  膝のあたりに絡まっていたジーンズとショーツを、 もどかしそうに脱ぎ捨て、俺の首に腕を回す。  膝を俺の脚の間に差しこみ、弾力のある太腿で股間 を擦り上げながら、耳元でささやく。 「もう、これ、欲しい…」  言われるまでもなく、俺のほうも臨戦体制は整って いた。 「うん、じゃあ、ベッドへ…」 「いやっ、もう待てない!」 「うわ!」  その場で押し倒され、フローリングの床に後頭部を したたか打ちつける。 「痛てっ! 危ないなぁ、もう」 「うふ、ごめぇん」  店長は気にする風でもなく嬉しそうに俺のジーンズ のジッパーに手をかける。 「窮屈そうでちゅね〜。今おねえさんが出してあげま ちゅからね〜」 「そのしゃべり方、やめてくれ…」  なんでそんなに楽しそうなんだ。 「ん! 元気いっぱいでちゅね〜。食べちゃうぞ〜、 ぱくっ」 「うわ…!」 (以降、執筆CHU! につき略)  そういえば、かすみの熱は下がっただろうか。  食欲はあるのだろうか。  俺は駅前のケーキ屋で、喉を通りやすそうなものを いくつか買って、家路についた。 「ただいま…」  玄関に、見慣れない男物の靴があった。  …誰だ?  うちを訪ねてくる男なんて、心当たりがない。  俺は不安になって、慌てて家の中に入った。   「あ、兄さん」 「どうした? 誰が来てるんだ?」  聞くまでもなかった。  ソファに沈み込んでいる巨体。忘れようが、ない。 「や、和馬くん。しばらくですな」 「……あ…どうも」  ハンプティ・ダンプティ――じゃなかった、金満。  かすみがかつて世話になっていた男だ。  あの時は、『後で改めてご挨拶に』などとうっかり 言ってしまったが、やばい、すっかり忘れていた。  少しバツが悪い。 「いやなに、かすみが元気にやっているかと思いまし てな。ちょうど仕事でこちらに来たもので」  それにしても、相変わらずの嫌な笑顔だ。  このニヤニヤ笑いは、どちらかといえばチェシャ猫 だな。  …ルイス・キャロルが気を悪くしそうだが。 「どうぞ」  ちはやが金満の前にコーヒーを置く。  ああっ、そんないい豆を使わなくても、出がらしで いいんだ、ちはやっ。 「これはどうも。いただきますよ」  金満は、ズズズズ…と下品な音を立ててコーヒーを すする。  そのニヤついた目は…あろうことか、ちはやの後ろ 姿をじっとりと追っている! 「いやあ、妹さんたちは美人ぞろいですな。お年頃の 妹さんだとさぞやご心配でしょう。ふぉっふぉっ」  かあっと頭に血がのぼる。  こ、このスケベジジイがっ!  俺の可愛い妹たちを、邪な目で見るんじゃねえっ! 「ちょ、ちょっと失礼…」  俺は席を立って、ちはやのいるキッチンに入る。 「ちはやっ! なんであいつを家に入れたんだっ」 「……は?」  ちはやはいぶかしげに俺を見る。 「他に、誰と誰が、奴に会ったんだっ」 「みんな、挨拶させたわよ? 当たり前じゃないの。 かすみの育ての親なんでしょう?」  みんな? みんなだと? 俺は頭を抱えた。 「あ、さやかは部活で帰ってないから、まだね。あと かすみもまだ眠っているから…」 「よし、いいか! さやかは挨拶させる必要はない! かすみが起きる前にとっとと帰ってもらおう!」  俺は一気にまくし立て、ハァハァと息をつく。  いかん、興奮し過ぎたようだ。  ちはやがポカンと口を開けている。 「やだ兄さん、なに言って…」 「いいな! お前ももうあいつの前に出るな!」 「…兄さんっ!」  ちはやの声には怒気が含まれていた。 「兄さんがあの人を嫌いなのは、よーく分かったわ。 でもね、かすみに会うためにわざわざ寄って下さった 方を、そんな風に帰すわけにはいかないでしょう?」 「で、でもな、ちはや…」 「今までずっと、かすみを育ててくれた人なのよ?  それをまるで悪人扱いなんて…。兄さんが、そこまで 情に疎い人だなんて、思わなかったわっ!」  しまった、ちはやの逆鱗に触れてしまった。  こうなると、こいつは頑として譲らない。 「いや、実際さっきもだな、ちはやのケツを、こう、 舐めるようにジロジロと…」 「……! もう、下品なのは兄さんの方じゃない!」  やばい、本気で怒らせてしまったようだ。 「ははは……えーと。あ、そうだ。これ、お土産」  俺は買ってきたケーキの箱をちはやに渡す。  ちはやは無言のまま、それを受け取った。 「ムースとかなら、かすみが食欲なくても食えるかな と思ってさ…」 「…そうね。ありがと」  ちはやは箱を開け、苺の乗ったムースを皿に移す。  それから手早くミルクたっぷりの紅茶をいれると、 ムースと一緒にお盆に載せた。 「じゃあ、これ、持って行ってあげて」 「了解」 「食べたら、下に来て挨拶するように言っといてね」 「………」  それは了解する気になれなかった。 「兄さん」  ちはやの声が1オクターブ下がる。 「……わかったよ」  俺は不承不承ながら、そう答えるしかなかった。  コンコン。  かすみの部屋のドアをノックする。 「かすみ? 起きてるか?」  声をかけると、 「ん……はい…」  ぼんやりとした声で返事が返ってきた。 「入るよ」  俺はそう断ってからドアを開ける。 「どう、調子は?」 「……あ、はい…。休ませていただいたので、だいぶ 良くなりました」  うつむきがちにそう言うかすみの顔色は、確かに朝 とくらべると、ずいぶん良くなっていた。  とはいえ、万全の体調とは言えなさそうだ。 「あんまり無理しちゃだめだよ」  俺は机の上に、ケーキと紅茶の載った皿を置く。 「今日はほとんど何も食べてないだろう? こういう ものなら食べやすいかと思って、買ってきたんだ」  かすみはうつむいたまま、手を伸ばそうとしない。 「ほら、少しでも食べなきゃ」  俺は皿を手に取って、ベッドに腰掛けているかすみ の顔を覗き込む。 「……はい」  小さな声でそう言って皿は受け取ったものの、あか らさまに目をそらし、俺を見ようとしない。  …それも仕方ないだろう。  そう仕向けたのは、他でもない、俺なのだから。 「…とにかくさ。みんな心配してるんだから。ちゃん と食べて、元気になってくれよ」  俺は無理に笑顔を作って言った。 「はい…。すみません」  うつむいたままそう言うかすみは、皿の上のケーキ をフォークで少しつついただけで、口に入れようとは しない。  俺がいると、食べにくいのかもしれない。  ここは席をはずした方がいいのだろう。 「じゃあ、俺は部屋に戻るけど…。ちゃんと食べるん だよ?」 「…はい」  立ちあがりドアに手をかけたところで、大事なこと を言い忘れていたのに気付いた。 「あ、そうだ」 「はい?」 「今、階下に金満さんが来てるんだ。それを食べたら 挨拶に…」  カシャン!  かすみの手から皿が滑り落ち、絨毯の上でケーキが べしゃっとつぶれる。 「……あ…あ…」  今日初めて俺の目をまっすぐに見るかすみ。  だがその顔には血色というものがまるでなかった。 「ど、どうした?」  俺は慌ててかすみの側に駆け寄る。  かすみは俺の目を見つめたまま、駆け寄った俺の腕 を掴む。  その手は小さく震えていた。 「…あ…ああ…」  必死に言葉を紡ごうとするが、唇がパクパクと動く だけで、うめくような声しか出ない。 「かすみ?」  俺の腕を掴んだ指に力がこもる。  瞬きもせず俺を見つめる目に涙があふれだす。  せわしない呼吸で胸が大きく上下する。 「かすみ? おい、かすみっ!?」 「…ひ…ひぅ…っ」  不意に喉を詰まらせ、指先をブルブルと震わせる。  やばい、過呼吸から来る呼吸困難だろうか。 「落ちつけ、かすみ! ゆっくり深呼吸するんだ!」 「……はぅ…っ」  俺はかすみを抱き締めて、背中を撫でてやる。 「そうだ、ゆっくり…吐いて…吸って…そうだ」  俺の腕の中でその身体を震わせながらも、かすみは 少しずつ呼吸を取り戻していく。 「そうだ。もう大丈夫だからな。大丈夫だ」  かすみの髪を、腕を、背中を、撫でさすりながら、 その頼りない細い肢体を、強く、強く抱き締める。 「…お…に…さま…っ」  搾り出された声は、涙まじりだ。 「いいんだ。話さなくていい…」 「ごめ…なさ……。ごめんなさい…」 「なにが…っ」  謝らなくちゃならないのは、俺のほうだ。  自分の殻を破ろうとしているかすみを、俺の身勝手 な嫉妬で萎縮させてしまった。  兄貴失格だ。 「お兄様を怒らせるようなこと、してしまって…ごめ んなさい…。お願いですから…嫌わないで…」  胸の奥が締めつけられる。  嫌うはずがない。嫌えるはずがないじゃないか。  こんなにも、健気なかすみを。 「いや、俺が悪いんだ。かすみは何も悪いことなんか してないじゃないか」 「でも…でも…っ」 「ごめん、かすみ」  やっと、謝ることができた。  なのに、かすみは俺の腕の中で、ふるふるとかぶり を振る。 「わたしが、いけないんです…。いつも、いつもそう なんです。わたしが、バカだから…っ」  いったい誰に、そんな風に言われたんだろうか。  いつも、そんなことを言われてきたのだろうか。  俺はせつなくなって、ただかすみの頭を撫で続けて いた。 「あの…あの…。わ、わたしっ…」  かすみが顔を上げて俺を見つめる。  目尻に溜まっていた涙の雫が、頬にこぼれる。 「わたしっ、いい子になりますから…」 「…かすみはもう充分いい子だよ」 「なんでも、なんでもしますから…」  そんな大げさな、と笑おうとしたが、かすみの目は 真剣そのものだった。 「だから、だから…っ」 「わたしを、あそこへ帰さないでくださいっ…!」 「え…?」  一瞬、かすみの言っている言葉の意味が把握できな かった。 「わたし、もっとがんばりますからっ、もっといい子 になりますからっ…! お願いですから、ここにいさ せてくださいっ」  ……。  なにを…。  なにを心配してるんだ、かすみは! 「ばかやろうっ…!」  かすみを抱き締める腕に力がこもる。 「ご、ごめんなさ…」  反射的に謝って、身をすくめるかすみの肩を、俺は 思わず揺さぶっていた。 「ほんとに馬鹿だよ! なんで、なんでそんな…」 「…ごめ…なさ…」 「謝るな!」  かすみの肩がびくんと震える。 「どこへもやるはずないだろ…。お前は、俺の大事な 妹なんだから」 「……」  かすみの目にまた涙があふれてくる。 「行きたいって言っても、行かせないぞ! 俺はまだ 何一つ兄貴らしいことさえしてないってのに!」 「あ……」  かすみは、涙をこぼしながらも、ようやくかすかに 笑顔を見せた。 「まったく。早合点もいいところだ。俺が、そんなに 薄情だと思ってたのか?」 「あの…。じゃ、わたしここにいていいんですか?」 「あたりまえだろ」  そう答えた途端、緊張がとけたせいか、かすみの腰 がガクンと崩れる。 「だ、大丈夫か?」 「…は、はい、すみません」  俺の手につかまって、よろけながら立ちあがる。 「金満さんは、ただかすみを心配して様子を見に来た だけだよ」 「そ…そうだったんですか…」  恥ずかしそうに、赤くなってうつむくかすみ。  つい、からかいたくなってしまう。 「俺が、かすみを帰すために呼んだと思った?」 「い、いえっ! あの…」 「俺ってそんなに意地悪に思われてたんだ。ショック だなぁ…」  俺はがっくりと肩を落として見せる。 「ち、違うんですっ、そうじゃないんですっ!」  予想どおり、必死になって弁解してくるのが可愛く て、俺は落ちこんだふりを続ける。  ははっ、充分、意地悪だよなぁ。 「わたし、お兄様に嫌われたと思って、それで、それ でっ…!」  かすみは懸命に、うつむいた俺の顔を覗きこもうと している。 「ごめん、う・そ」  振り向きざまに舌を出してそう言う。  ポカンと口をあけたかすみは、次の瞬間、小さな手 で俺の胸をポカポカと叩き出した。 「ひ、ひどいですうっ! かすみ、ほんとに、ほんと に…!」 「ごめ、ごめんって! こら、痛いってば」  いつまでも叩きつづける手首をとって引き寄せ、俺 はかすみをぎゅっと抱き締めた。 「元気でたみたいだな」 「…もう、お兄様いじわるです」 「嫌いになった?」 「そんなわけ…ないです」  かすみの小柄な体は、兄の無骨な抱擁にも抵抗する そぶりをみせない。  信頼されている。  俺は、かすみに心から信頼されているのだ。  心の底から歓喜が沸き上がる。  かすみの身体の温かさ。規則正しい心臓の音。  俺はそれを感じながら、このまま彼女を離したくな いという思いにとらわれる。  馬鹿げた独占欲。それは充分承知している。  だけど、今だけは…。 「お兄様…?」  せめて、今この時だけは……。 「お…にいさま…くるし…」  強く抱きしめすぎたために息を詰まらせたかすみの 少し蒼ざめた顔が、力を込めた俺の腕の中から、俺を 見つめている。 「ご…ごご、ごめんっ! 大丈夫?」 慌てて手を放してかすみを開放する。  かすみは 「はあっ…」  と息を一つついてから、弱々しく微笑んでみせる。 「平気…です」    ぞくっ。  背中が総毛立つ。  頭の芯が痺れるような、抗いがたい誘惑に。  ――違う。  そんなはずはない、かすみは妹なんだから。  俺は頭を振って、馬鹿げた感情を振り捨てる。 「そ、そっか。えっと…そろそろ、挨拶に行った方が いいかな」  かすみの笑顔がまぶしくて、俺は慌てて目をそらし 話題を変えた。 「あ、はい…あの、お願いがあるんですけど…」 「ん? なんだい」 「あの…その…」  もじもじと言いよどむかすみ。 「あの…いっしょにいてくれませんか?」 「え? 挨拶のときに?」 「は、はい…。お願いします」  かすみの手が、遠慮がちに俺の手を握る。  ドキン。  心臓が踊る。 「あの…だめ、ですか?」  頼られているという実感。  柔らかくて細い指を、強く握り返す。 「いいよ、一緒に行こう」 「はいっ」  俺はかすみの手を引いて、階下へ向かった。 「お待たせしてすみません」  リビングのドアを開けてそう声をかける。  金満は贅肉を揺らしながら立ち上がり、いやらしい (いかん、主観だ)…もとい、満面の笑みを浮かべて かすみを見る。 「あ、あの、あの…お久しぶり…です」  かすみは、俺の手を握ったまま、おどおどと金満に 頭を下げる。  繋がれた俺たちの手を一瞥した金満は、 「これはずいぶん仲良くなったもんだねぇ。いやぁ、 さすがに血の繋がりというのは違うもんだ」  大袈裟に感心してみせる。  …嫌味っぽいな。 「さ、こっちに来てよく顔を見せておくれ」 「あ…は、はい…」  かすみは瞬間俺の顔を見上げ、俺がうなずくと、手 は繋いだままトコトコと金満に歩み寄る。  その様子を見て鼻白んだような金満。 「いつまでそうやって手を繋いでいる気かね? 客の 前で失礼だとは思わんのかね」  かすみの身体がピクンと跳ねる。 「わしはそんな教育をした覚えはないんだがねぇ」 「す、すみませんっ」  かすみは慌てて手を振り解こうとしたが、俺は尚更 強くその手を握り締めた。 「……?」  困惑したように、俺を見るかすみ。  心配するな。一緒にいるって約束しただろ。  俺はかすみを安心させるために笑顔を見せる。 「すいません。実は、俺が頼んで繋いでもらってるん ですよ」  あっけらかんと言い放ってやる。 「……あまり過保護なのは感心しませんな」  憮然とした顔で、それでも一応引き下がる金満。  他人の家のことなど、ほっとけ! 「いやぁ、ずっと離れていたもんで、それを取り戻そ うと思うと、つい」  俺は心で罵りの言葉を吐きながら、とびきり明るい 笑顔で能天気に言ってやった。  金満は口の中で何かぶつぶつと言いながらも、それ 以上その件には触れなかった。  その後は、どうということのない世間話に終始し、 そろそろ奴も帰るだろうと思っていた。  しかし、そうはいかなかったのだ…。 「お待たせしましたー、用意できましたよぉ」  ひなたがニコニコと部屋に入ってくる。  …用意? 「や、これはすみませんな」  金満もひなたに笑顔を返し、よっこいしょとカバン を持って立ち上がる。 「おい、ひなた。用意ってなんだ?」  俺はひなたの袖を引いて、こっそりと聞いた。 「えっとねぇ、うち客間ないでしょう? おとーさん のアトリエに泊まってもらうから片付けてたんだよ」  えっへん、と腰に手を当てて答えるひなた。  なに、泊まるだと!?  俺は目の前が暗くなるのを感じた。 「ごめんなさい、この部屋しか空いていなくて。父は 当分帰らないので、ゆっくりくつろいでくださいね」  ちはやは金満のカバンを持って、アトリエのドアを 開ける。 「すぐ夕食にしますから。それとも先にお風呂に入ら れますか?」  …うちは旅館じゃないんだぞ、ちはや。 「いやいや、皆さん方の後で結構ですよ。すっかり、 ご好意に甘えてしまって申し訳ない」  即座に脳裏に浮かんだのは、風呂場で目を皿のよう にして落ちた陰毛を探す金満の姿だった。 「いや! お客さんを後から入らせるわけにはいきま せんからっ! こっちです、こっち!」  ポカンと口を開けるちはやとひなたを尻目に、俺は 金満を風呂場に引きずって行った。 「タオルはこれ使ってください、じゃ」  俺は金満を脱衣所に押し込んで、その場からとっと と逃れようとした。 「まあまあ、そう焦らず。どうでしょうな、男同士、 一緒に入りませんか」  ニタリと笑う金満。全身に鳥肌が立つ。  …こいつ、男でもいいのか? 「ゴホゴホッ! いや、僕ちょっと風邪気味なので」  わざとらしく咳きこんで、慌ててその場を離れた。 「兄さん、湯加減どうだった?」  そんなもの知るかと思ったが、ここでまたちはやの 逆鱗に触れるのも嫌なので、適当にうなずいておく。 「お風呂上りだったらビールでも用意しようかしら。 確か冷蔵庫に入ってたわよね」  呟きながら冷蔵庫をのぞくちはやの機嫌を損ねない よう、おそるおそる切り出す。 「なあ、なんで泊まってもらう事になったの?」 「やだ、発泡酒しかないわ。これでもいいかしら」  心の底からどうでもよかったが、一応「いいんじゃ ない?」と同意しておく。 「そうよね。じゃ、グラスを冷やして、と。で、なに か言った?」