「兄さん、兄さんたら」  ちはやが廊下から俺を呼ぶ。  聞こえてはいたが答える気にもなれず、俺は布団の 中で寝返りをうつ。 「みっともないから拗ねないでよ。見送りくらい普通 にできない? 聞こえてるの、兄さん」  …別に拗ねてるわけじゃないさ。  階下では妹たちが金満を見送るべく玄関に集まって いる様子だ。 「聞こえてるんでしょ、兄さん?」  ドンドン、とドアを叩く。  うるさい…。  いいかげん煩わしくなってきて、起き上がる。 「兄さん! いいかげんにしないと…」 \  ガチャ。  ドアを開けると、文句を言おうと口を開けたちはや と目が合う。 「っと…起きてたなら、返事くらいしてよ」  拍子抜けしたようなちはやが、俺の顔をまじまじと 見つめる。 「だ、大丈夫? なんか…すごいやつれてない?」  そうか。そうかもな。  結局あれから、罪悪感と自己嫌悪に苛まれて一睡も できなかった。  今の気分は最悪そのものだ。 「…見送りするんだろ」 「あ、うん」  明らかに不機嫌な俺を見て、ちはやはそれ以上何も 言わなかった。 \ 「あ、お兄ちゃん、やっと起きたのぉ」  重い足を引きずって階段を降りてきた俺は、ひなた にすかさず突っ込まれて苦笑する。 「ごめん。ちょっと体調が悪くてさ」 「ほう。確かに顔色が良くない。養生して下さいよ」  相変わらず薄笑いを浮かべた金満が、俺の顔を覗き こむ。 「いえ…たいしたことはないですから」  奴から顔をそらすと、心配そうな顔をしたかすみと 目があった。  居たたまれない気持ちでかすみからも目をそらす。 \  金満が靴をはいて立ち上がる。 「すっかりお言葉に甘えてしまって、お世話をおかけ しましたな」 「いえ、そんな。何もお構いできなくて」  ちはやは、金満にカバンを手渡しながら、そつなく 答える。 「とんでもない! こんな美人姉妹に囲まれて過ごし たのは、これはもう一生の思い出ですよ」  大袈裟な金満の言葉に、みさとがケタケタ笑う。 「やだー、おじさんったら。また来ればいいじゃん」 「実は仕事であと数日はここに滞在する予定でして。 また寄らせていただくかもしれませんな」  俺はげんなりして、突っ込む気力もなかった。\ 「では、和馬君。くれぐれもかすみを頼みますぞ」  そう言って右手を差し出す金満。  無視するわけにもいかず握手に応じたが、すかさず 両手で握り締められ、思わず鳥肌が立つ。 「ふぉふぉふぉ。ごきげんよう」  こうして金満は上機嫌で我が家を去っていった。\ 「ゲー、きもいおっさんだったなー」  変わり身の早いみさとが、舌を出しながら言う。 「こら、みさと。そんな風に言わないの」 「えー、だってさ……っと」  みさとは、小さくなっているかすみに気がついて、 慌てて取り繕うように手を振る。 「あ、別に悪い人だとは思ってないよっ! ごめん、 かすみ。気悪くした?」 「い、いえ…」  ……。  何とも言えない重い空気が漂う。 「あの…わたし、アトリエ片付けてきます」  うつむいたまま小声でそう言い、かすみはアトリエ に入っていった。\ 「あちゃー。悪いこと言っちゃったかなー」 「みさとちゃん、粗忽者。かすみちゃん、可哀相」 「何よう、だから反省してるんじゃん!」  険悪になりかけるみさととひなたの間に、ちはやが 割って入る。 「喧嘩しない! ほら、さやかを見習って、片付けを 手伝いなさい」  さやかはひとり黙々と、ベッドからはずしたシーツ などを洗濯機へと運んでいる。  俺も何か手伝おうとアトリエへ足を向けた。 「あ、兄さんはいいわよ。体調悪いんでしょう?」 「いや、でもなぁ…」  みんなが働いているのに一人だけ休むっていうのも なんだかな…。 \ 「いいってば! ほら、かすみもまだ本調子じゃない でしょ。あなたたちは部屋に戻って休みなさい!」 「わ、わたしもですか?」  雑巾を手にしたかすみが、目を丸くしてちはやの顔 を見る。 「そうよ。ちゃんと治してくれないと、またいきなり 倒れられたら、こっちも大変なんだから」  追い立てられるように部屋を出た俺とかすみの背後 から、ちはやが念を押す。 「食事の支度ができたら呼ぶから、それまで大人しく してなさいよ」 \ 「……」  しかたなく無言で階段を上る俺の後を、かすみも、 同じように無言でついてくる。 「…じゃあ」  そのまま自室に入ろうとドアに手を掛けた時、 「あ、あの…」  かすみの遠慮がちな声に呼び止められる。 「なに?」  俺は、相変わらずかすみを正面から見ることができ ずに、足下に視線を落としながら聞いた。 「あの…もしかしてわたしがうつしたんでしょうか」  一瞬、何の話か理解できなかったが、かすみは俺が かすみの風邪をうつされて体調を崩したと思っている ようだった。 \ 「いや、風邪じゃないから」 「え…? あの…」  俺は、まだ何か言いかけるかすみを無視して部屋に 入り、後ろ手にドアを閉めてロックをした。  そのままドア越しに背中で気配を探る。  どうやらかすみは、そっけなく閉められたドアの前 で、どうすべきか思案しているようだった。  やがて、小さく「お大事に…」と呟く声が聞こえ、 足音が遠ざかっていった。  お大事に?  お大事に、だって?  俺は思わずヒステリックに笑い出しそうになる。 \  俺が昨夜考えていたことを知れば、かすみの口から 俺を気遣う言葉など出やしないだろう。  俺はもうそんな資格など、失ってしまった。  …いや。  俺は、自らそれを踏みにじったのだ。 「…くっ…はははっ…」  いつのまにか俺は本当に笑っていた。  どうしようもない自分に向けた、嘲笑。  このまま大笑いでもすれば、少しは気が晴れるのだ ろうか? 「は…はは…」  だがいつしか笑いは凍りつき、かわりに涙がこぼれ ていた。 \