「かすみ。何か気にかかることでもあるのか?」 「あ…いえ。なんでもないんです」  慌てたように首を振り、笑顔を作る。  そんな言葉で納得できるような態度じゃなかった。 「かすみ」  俺はかすみの肩に手を置いて、なるべく問い詰める ような態度にならないよう、気をつけて聞いた。 「何か困っているんなら、いつでも相談してくれよ」 「……」  かすみは困惑したような顔でまたうつむく。 「なあ、俺はかすみの兄貴だろ? そんなには頼りに ならないかもしれないけど、かすみのためならできる ことは何でもしてやりたいって本気で思ってるよ」  うつむいたかすみの睫毛がかすかに震えている。  ためらうように唇が開きかけては、閉じられる。 「……いえ。なんでもないんです。…本当に」  かすみは顔を上げて微笑んだ。 「心配してくださって…ありがとうございます」  そう言って、ぺこりと頭を下げる。 「…そう」  これ以上追求しても、かすみを困らせるだけのよう な気がした。 「何かあったら、いつでも俺に言ってくれよ?」  いつものようにかすみの頭を軽く撫でる。  かすみは潤んだ目をして俺を見上げていた。 「…お兄様」 「うん?」 「…いえ…呼んでみたかっただけです…」  そう言うと、かすみは俺の胸に顔を埋めた。  ドキン。胸が高鳴る。  忘れかけていた今朝がたの夢が、抑えきれなかった 不純な妄想が、再び脳裏によみがえる。  風に揺れる髪の隙間からのぞく細い肩。  そこから続くしなやかに伸びた腕が、俺のシャツを 軽く掴んでいる。  無防備に全体重を俺に預けているのだろうが、それ は頼りないほどに軽くて…。  今この場で無理矢理に押し倒したとしても、きっと 何の抵抗も出来やしないだろう。  俺の腕の中で俺の思うままに、たとえどんなに蹂躙 されたとしても、無力な小動物のように小さく震える のが精一杯だろう。    いや…俺は…何を考えている?  かすみは妹で…。  俺が守ってやらなきゃならない、小さな妹で…。 「あ……!」  突然かすみはびくっとして身を引いた。  ぎくりとした。  俺の考えが見透かされてしまったかと思って。  そんなはずはない。  わかるわけがないんだ。  嫌な汗が背中を流れる。  胸の鼓動はまだおさまらない。 「ごめんなさ…あ…あの…」  みるみるかすみの頬が赤く染まって行く。 「わ、わたし…晩ご飯のしたく…してきます」 「あ…うん」  お互い目を合わせない、空々しい会話。 「な、なにか食べたいもの…とか、ありますか…?」 「え? いや…別になんでも…」 「そ、そうですか…。で、では…」  頭を下げて、そそくさと立ち去るかすみ。  俺は突っ立ったまま、それをぼんやりと見送った。  この腕にはまだ、かすみの体温が残っていて…。  俺はしばらくそのまま反芻するように、その柔らか な感触を思い出していた。  夕食の間も、かすみはどこか落ち着かない様子で、 上の空だった。 「兄さん、体調はもういいの?」 「…ん? え、なに?」  ぼんやりとかすみを見ていたら、急に声をかけられ 俺は慌ててちはやの方に向き直った。 「体調。もう平気?」 「ああ。うん、大丈夫。もともとそうたいしたことは なかったし」 「そう? まだなんだかぼんやりしてるけど」 「いや、ちょっと考え事してて…」  ガシャーン!  突然の音に驚いて振り向くと、みさとの茶碗を落と したらしいかすみが、狼狽していた。 「あ…ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ」 「あー、あたしのお茶碗ーっ! それ気に入ってたの にい!」  ふくれっつらのみさとを、ちはやがたしなめる。 「人によそわせといて、そういうこと言わないの!  かすみ、怪我してない?」 「は、はい…平気です…」 「片付けるの、手伝うわ」 「い、いえ、ひとりで大丈夫ですから…」  割れた破片を拾い集めるかすみを見ながら、ちはや は肩をすくめる。 「兄さんといい、かすみといい、最近少し変よ?」 「…そうかな」 「そ、そんなこと…ないです」 「…そう? だったらいいんだけど」  かすみが掃除機で床を掃除している間に、ひなたが みさとのために客用の茶碗を出していた。 「ひなたー、これぜんぜん可愛くないっ」 「しょうがないよぉ、今これしかないんだもん。今度 好きなの買っておいでよ」 「ちぇー…。あっ!」 「なあに?」 「やだーっ! これって、あのオッサンが使ったやつ じゃん?」  ガシャッ! 「あ、ご、ごめんなさいっ…」  今度は掃除機のホースを落としてしまったらしい。 「もうそれくらいでいいわよ、かすみ。ほら、あなた も早く食べなさい。みさとも文句を言わないの」 「えーっ、オッサンがうつったらどーすんの」 「うつりません!」 「もー、他人事だと思って、冷たいよ、ちはやは」 「いちいちうるさいのよ、あんたはっ!」  いつもと変わらない、にぎやかな食卓。  いつもなら、かすみも微笑んで、そこにとけこんで いるように見えた。  だが、今日は…。 「……」  笑顔を浮かべてはいるものの、どこかで線を引いた ような距離があるような気がした。  …いや。きっと俺の思い過ごしだろう。  俺自身が、かすみと距離をおかなくてはいけないと 思っているから、そんな風に見えてしまうのだろう。  俺は自制がきかなくなるのが怖かった。  このままでは、そう遠くないうちにあの夢が、妄想 が、現実になる。  それは確かな予感だった。  コンコン。  遠慮がちなノックの音。  きっと、かすみだ。 「どうぞ」  俺はプリンタに紙をセットしながら、返事をした。  かすみが、おずおずと部屋に入ってくる。 「…あの」 「ちょっと待ってて。すぐ終わるから」 「はい…」  かすみはドアの前に立ち止まった。  印刷された紙が、低い機械音を伴って吐き出されて は重ねられて行く。  かすみはそれを不思議そうな顔で見ていた。  やがてプリンタが停止し、機械音が止んだ。  俺は印刷したものにざっと目を通して、それをまと めてホッチキスで止めた。 「はい、これ」 「…え?」  それを渡すと、俺の顔とその用紙を見比べて、困惑 したような顔をするかすみ。 「問題集。インターネットで小学校の高学年用のやつ をみつけたから」 「はい…? あの…」 「今日からは、それを解いていってくれ」 「…え?」  かすみは、きょとんとした顔で俺を見る。 「大丈夫、もうそれくらいの実力はあるよ。どうして も分からない時は聞いてくれていいから」 「あ、はい…あの…」 「俺もいろいろ忙しいからさ。いつまでも付きっきり で教えてても、かすみも成長しないし」  …嘘だった。  なるべく、ふたりきりになりたくないだけだ。 「あ、はい、わかりました」  かすみはあっさり納得した。  いや、むしろかすみの方こそ、ほっとしているよう に見えた。 「急いでやらなくても、いいから。無理しない程度に 少しずつでいいよ。できたのは持ってきてくれたら、 採点してあげるから」 「はい…」  かすみはペコリと頭を下げると、問題集を大事そう に胸に抱えて、部屋を出て行った。  …これでいいんだ。  少しずつ距離をおいていけば、きっとこの妙な感情 が気の迷いだったと気づくだろう。  俺はパソコンの電源を落とし、ベッドに横になる。  そういえば、昨夜はほとんど眠れなかったんだ。  まだ早い時間だったが、急激な睡魔に誘われるまま に、俺は目を閉じた。  なぜか不意に目が醒めた。  月の光に青く浮かび上がる天井  風が木々を揺らすかすかな音。  いつもの夜。普通の夜だ。  だが…この違和感はいったい何だろう? 「お兄様…」  急に声をかけられて、心臓が止まりそうになる。  闇に溶け込むように、ベッドの脇にかすみが立って いた。 「…夜中だぞ。自分の部屋へ帰れ」  俺はどぎまぎしながら、壁の方に寝返りを打つ。  こんな時間に、かすみとふたりきり。  俺は、自分を抑える自信がなかった。  だから、わざと顔を見ないように背中を向けた。  だが。 「どうして…急に…冷たくするんですか」  ギシッ。  ベッドが軋むと同時に、月明りがさえぎられる。 「もう、わたしのことが嫌いになったんですか…?」  漆黒の影が、俺の視界をふさぐ。  何が起こっているのか、分からない。  いや。本当は…分かっていた。  ただ、分かりたくないだけなんだ、俺は。    ゆっくりと顔を上げる。  かすみは壁に手をつき、覆い被さるようにして俺を 見下ろしていた。 「かすみ、お前…」  なだらかな肩の線。  頼りないような細い腕。  金色に輝く産毛。  まだ幼さを残した腰のライン。  月の光を逆光に、くっきりと浮かび上がるかすみの シルエット。  それは、明らかに、何も身につけていない者のそれ だった。  どくん。  心臓が踊り出す。 「お兄様…」  かすみの顔が近づいてくる。  …駄目だ。俺たちは兄妹なんだ。  こんなこと、許されないんだ。  俺は口を開いて、そう告げようとした。  だが、唇は動くのに、声が出ない。 「愛してます、お兄様…」  かすみの舌が、俺の唇に触れる。  そしてそれは、声を出そうとして開いた俺の口の中 に、するりと進入してきた。 「……!」  目がくらむようだった。  それは、あまりに甘美な感触だった。  ピチャピチャと音を立てながら、かすみの舌は俺の 歯をなぞり、唇に触れ、舌と絡み合う。