しかたなく俺は起き上がり、そっと部屋を出ると、 親父のアトリエを目指した。  今夜も月明かりが主人のいない部屋を、青く浮かび あがらせている。  さっきの夢と同じように、月は苛むかの如く冷たい 光で俺を照らす。  俺はカーテンを全開にし、机の引き出しから煙草を 取り出して火を点ける。  この前俺が捨ててしまったので、同じものを入れて おいたのだ。  次に親父が帰ってきた時に、余計な文句を言われた くなかったからそうしたのだが、結局俺が喫んでいる んだから、世話がない。  強い香りの紫煙が立ち上る。  癖があるからこそ、慣れると病みつきになるのか。  俺は、ぼんやりと窓の外を見ながら、煙草をくゆら せていた。  薄暗い部屋の中を紫煙がゆっくりと流れていく。  俺はそれをぼんやりと目で追いながら、自分の気持 ちを整理しようとしていた。  どうして俺は、妹であるかすみに欲情してしまうの だろう。  かすみのどこが、他の妹と違うというのだろう。  まあ確かに、かすみがこの家に来たのは、ごく最近 のことだ。  兄妹として過ごした年月の短さが俺を惑わせている のだろうか。  …しかし、それはひなたも同じことだ。  ひなたが家に来たのは、かすみが来る少し前だ。  ひなたは、人当たりがいいせいか、あっという間に 家族の一員としての立場を確立してしまった。  しばしば半裸で家の中を歩きまわったりするひなた だが、欲情したことなど、ない。  あまりにも無防備すぎて、目のやり場に困ることも あるが、だからどうということもないし、ひなたも気 にするふうではない。    では、他に何があるだろう。  性格的な問題だろうか?  大人しくて気弱なところはあるが、それでも最近は ずいぶん明るくなってきたように思う。  はっきりと自分の意見をいうこともある。  そりゃあ他の妹たちと比べると、まだまだ大人しい といえるが、そのせいで欲情するとも思えない。  というか、大人しげな女にいちいち欲情していたら 身が持たないじゃないか、俺。  フェロモンにくらっと、とかいうのも考えにくい。  かすみの体型は標準的…いや、むしろ標準より少し 貧相な方ではないか。  万が一、心の奥底に貧相な体型へのよこしまな欲望 が眠っていたと仮定しよう。  だが、もしもそうならば、俺はみさとにも欲情して いなければならない。  自信を持って言えるが、それは、ない。 「……はぁ」  俺は溜息をついた。  こんなくだらないことを考えていても、解決の糸口 が見つかるとは思えない。  だけど、少しでもこうやってあがいていなければ、 自分の欲望に流されてしまいそうで、恐ろしかった。 「しばらく旅行にでも行こうかな…」  つぶやいてみたものの、妹たちを残して家を空ける なんて、考えられなかった。  どうせ行くなら、みんな連れて…。 「……それじゃ、何の意味もないな」  再び溜息をつきながら、俺は、2本目の煙草に火を つけた。  ゆっくりと立ち上る煙草の煙を眺めていると、不意 に新たな欲求が頭をもたげてきた。 「…酒が欲しいな」  煙草が置いてあるくらいだから、おそらく酒の類も この部屋のどこかにあるだろう。 「えーと…?」  机の引き出しをあちこち開けてみるが、それらしき ものは見当たらなかった。  俺は机から離れて電灯を点け、ごちゃごちゃと雑多 な部屋の中の探索をはじめることにした。  本棚の奥を覗き、絵の具やキャンバスの間を探り、 クローゼットを開け、ベッドマットをはがす。  ほとんど泥棒まがいだと思いながら、しばらく真剣 に探していたが、どうやらこのあたりには…。 「…無さそうだな」  しかし、そんな筈はない。  醜悪に酔った親父…というのは見た覚えがないが、 よく飲んではいたと記憶している。  他に何かありそうな場所はというと…。  俺は物置の扉を開けた。 「うーん…」  そこは部屋の中以上に乱雑だった。  3畳ほどの狭い場所に、古い雑誌や衣類、画材など が、おそらくは未整理のまま積み上げられている。  扉から入る光だけを頼りに、手前に積んである物を 少しずつ動かしながら、奥へ歩を進める。 「お」  小さな木のコンテナが無造作に転がっていた。  よくワインなどが入っているやつだ。  しかし、中は空のようだった。  とはいえ、こういうものがあるということは。 「中身がある可能性も高いってことだな」  さらに奥を覗きこむと、ダンボール箱の隙間から、 小さな棚のようなものが見えた。  雪崩を起こさないよう、注意深くそっちへ進む。 「…ビンゴ」  小さいが、それは確かにワインラックだった。  1本の瓶が寝かせられている。  俺はその瓶を手に取った。わずかに埃が舞う。  いったいいつから置いてあるのか、考えると恐い気 もするが、飲めないこともないだろう。  …しかし、ワインか。  正直に言えば、栓を開けるのが面倒くさい。  何か他のものはないかと未練がましくそのあたりを 見回していると、何かが小さく光った。 「ん?」  ラックの陰で、扉から入るわずかな光を反射させて いたのは、細いチェーンで吊り下げられた、小さな鍵 だった。 「…鍵ねえ」  どこの鍵なのか、皆目見当がつかない。  扉の鍵だとしたら、小さすぎる。  タンスやトランクのようなもの、と考えるのが妥当 な大きさだろう。  それを手に取って、よく見ようと扉の方にかざす。 「あっ…と」  小さな鍵は、チェーンの重みに負けて、するりと俺 の手から滑り落ちる。  かすかな金属音を立てて、それはガラクタの山の中 へ紛れてしまった。  俺は舌打ちしながら、その場に這いつくばる。  服が汚れそうだが、仕方がない。  わずかに空いた場所にガラクタを移動させながら、 落ちたあたりをくまなく探す。 「お、見つけ…え?」  存外簡単に、鍵は発見できた。  だが、その状態は、あまりにも不自然だった。 「……なんだこれ」  鍵は床に突き刺さっていた。  鋭利な刃物でもあるまいし、鍵が木の床を突き通す ことなど、あり得ない。  俺は慎重に鍵を床から引き抜いた。  何の抵抗もなく、それはすっと床から離れる。  …そうか。突き刺さったんじゃない。  はさまったんだ。  俺はもう一度、鍵を床に突き立てた。  それは、するりと音もなく床の継ぎ目に入りこむ。  …継ぎ目。  見た目には分からないが、そこには確かに継ぎ目が あったのだ。  床に刺さった鍵を、用心深くゆっくりと移動させる と、ある場所で突き当たりになる。  その場所から、継ぎ目は90度曲がって、さらに続 き、またしばらく行くと再び90度に曲がり…繋げる と、ほぼ正方形が浮かび上がった。 「床下収納…?」  俺は埃にまみれたその床を仔細に調べる。 「…あった」  床板の一部分をはがすと、そこにわずかなくぼみと 小さな鍵穴が現われた。  手に持った鍵をそこに刺しこむ。  カチリ。  小気味良い音を立てて、鍵が開く。  小さな正方形の扉が、わずかに軋みながら、重力に 従って下方へ垂れ下がって行く。 「……マジかよ」  四角く口を開けた物置の床。  俺は落ちないように気をつけながら、その中を覗き こむ。  埃と黴が入り交じったような匂い。  手探りで扉の周辺を探ると、硬いものに当たった。  この感触は…。 「階段…?」  ひんやりとした剥き出しのコンクリートの手触り。  俺はそのまま手を伸ばし、それが間違いなく階段で あることを確認した。 「……」  一旦扉から離れて、服についた埃を払う。  とにかく、暗すぎて駄目だ。  何か灯りを持ってこなくては。  隠し扉は開けたままにして、懐中電灯でも探そうと 物置を出た。  すでに酒のことなど、どうでも良くなっていた。 「えーと…確かこのへんに…」  ちょっと前、ブレーカーが落ちて電気が消えた時に 使った懐中電灯が、玄関においてあったはずだ。  しんと静まった家の中で、ごそごそと物を探すのは ちょっとした泥棒の気分で、妙に落ち着かない。 「…あった」  カチカチとスイッチを入れて、ちゃんと点灯する事 を確認する。  闇に慣れた目にはこの程度の光でも眩しく感じる。  俺はとりあえずスイッチを消して、アトリエへ引き 返した。 「よ…っと」  懐中電灯で隠し扉の中を照らす。  意外に奥が深く、小ぶりな懐中電灯ごときでは、奥 まで見渡すことはできない。  俺はおそるおそる足を踏み出す。  ぺたり、と足の裏に貼りつくコンクリートの無機的 な冷たさ。  いや、地下だから空気自体がどこか冷えているのだ ろうか。  なぜか突然引き返したい衝動に駆られ、思わず足を 止めそうになったその時。  ギシ…。  頭上でかすかな物音がした。  俺は慌てて身を翻し、隠し扉を閉めた。  頭上…この物置の上は、ちょうど2階へと続く階段 のはずだ。  誰かがトイレにでも行きたくなって、降りてきたの かもしれない。  俺は懐中電灯を消し、息をひそめた。  別に悪いことをしているわけではないのだが、この 場所のことは妹たちには黙っていた方がいいような気 がしたのだ。  ギシ、ギシ、ギシ…。  階段を降りる音がこんなに響くのは、この場所だか らこそか、それとも夜中で静まり返っているからか。  こっちが音を立てても聞かれてしまいそうに思い、 俺はほとんど息を止めた状態で身体を固くした。  ギシ、ギシ…。  やがて、音は止まった。  やはりトイレか。だったら次は扉を開ける音、水を 流す音が続いて、また階段を上がっていくだろう。  それまでの辛抱だ。  俺は自分に言い聞かせ、再び息を詰める。  ……。  しかし、いつまでたっても水音は聞こえてこない。  かわりに聞こえるのは…。  シュ、シュ、シュ。  かすかに床を擦るような…足音?  それもなるべく音を立てないような…。  って…まさか…泥棒?  足音は、台所やリビングを静かに移動しているよう だった。  奴は2階から降りてきた。  まさか妹たちの部屋に入ったんじゃないだろうな。  物音も大声も聞こえなかったから、直接何かをした とは考えにくいが、下着でも盗んだとしたら…。  急激に怒りが燃え上がる。  くそ。  妹たちに手を出してみろ、半殺しにしてやる。  俺はゆっくりと立ちあがる。  片手にはさっきの懐中電灯を持ち、武器になりそう なものを物色する。  たまたま目についた畳んだイーゼルを手に取り、俺 はそろそろと扉に近づいた。  …落ちつけ、俺。  自分に言い聞かせながら、ゆっくりと音を立てない ようにドアを開けて様子をうかがう。  リビングのドアがかすかに開いていた。  俺はそうっと移動してリビングを覗きこむ。  すると、人影のようなものがゆらりと動いた。  無我夢中でそいつに飛び掛かり、押し倒して抑えつ けると、 「きゃあっ…!」  そいつは小さく悲鳴をあげて…。  ……『きゃあ』?  俺はそいつを抑えつけたまま、懐中電灯を点けた。  急な明るさに目を細めながら、捉えた賊を見る。  そこには同じように目をしばたたかせている… 「か、かすみっ!?」  俺は慌てて手を離した。  かすみはへたへたと座り込んで、俺を見上げる。 「え…えっ…?」  かすみも驚いているようだ。 「な…何してるんだよ、こんな夜中に…」  自分の事は棚に上げて、俺はかすみを問い詰めた。 「あ、あの…」  かすみはおどおどと視線を落とす。  …何かがおかしい。  おどおどしているのはいつものことだが、それだけ じゃなくて…違和感がある。  俺は改めてかすみを見た。 「あれ?」  そうか、服装だ。  最初に着て来たメイド服に戻っている。 「あの……ご、ごめんなさい…っ」 「え?」 「わたし…わたし…」  かすみの声がだんだん涙まじりになる。  俺は何が起こっているのか理解できないまま、ぼん やりとあたりを見回す。 「わたし…っ、もう…ここには……」  懐中電灯の光に浮かび上がる、床に散らばったいく つかのもの。  さっき乱闘まがいのことをしたとき、俺が持ってた イーゼル。  テーブルに置いてあったと思しきリモコンや新聞。  それと、見覚えのある小さなボストン・バッグ。  …そう、覚えてるさ。  初めて会ったとき、かすみが大事そうに持っていた あのバッグだ。  それがここに落ちている意味を考えようとするが、 どうしても納得のいかない結論に導かれてしまう。 「お、お兄様…。いえ…和馬様…」  …どうして。  どうしてそんなふうに他人行儀に呼ぶんだ。 「短い間でしたけれど…ありがとうございました」  深々とお辞儀をする。  暗くてよく分からなかったが、鼻にかかった震える 声で、かすみは泣いているのだと思った。 「…なん…で?」  俺はどうしても理解できなかった。  なぜ、かすみが出て行こうとしているのか。  …そうだ。  かすみは、この家から出て行こうとしていたんだ。 「ちょ、ちょっと待って。えーと…」  俺はかなり混乱していた。  なんでいきなり、こんな夜中に、こそこそと逃げる ように出て行こうなんて…? 「と、とにかくちょっと待って。こっち来て」  俺は落ちていたカバンを拾い、かすみの腕を引いて アトリエへ連れて行った。