翌朝。  俺は熱を出していた。  寝不足のせいか、本当に風邪をひいたのか、何かの ストレスのせいなのか…。  ともかく、俺は言うことをきかない身体に抵抗する のを諦め、おとなしくベッドに横になっていることに した。 \ 「まったく…せっかくの休みだっていうのに」  ちはやが体温計を受け取りながら、ブツブツ言って いるのをぼんやりした頭で聞く。 「7度5分。少し下がったわね、何か食べる?」 「…いや、いい」 「それにしても、よりにもよってお客さんが来ている 時に、ふたり揃ってダウンするなんてね」  ふたり?  その言葉を聞いて、思わず身体を起こしかける。 「あ、ちょっと。まだ寝てなきゃだめよ」 「ダウンって…かすみ?」 「結局、風邪を悪化させちゃったみたいで、起きられ ないらしいの。ほら、ちゃんと布団に入って」  ちはやに押さえつけられ、ベッドに横になる。 \ 「いい? ちゃんと大人しく寝てるのよ」  母親みたいな口調で釘をさし、ちはやは部屋を出て いった。 br  熱のせいなのか、やけに身体がだるかった。  閉められたカーテンの隙間から、外の明るい日差し がうかがえる。  どうやら今日はいい天気らしい。  俺は、ぼんやりと天井を見ながら、かすみのことを 考えた。  はっきりしない頭のせいで、昨夜のことのどこまで が現実か分からなくなっている。 \  起きられないほど体調の悪いかすみが、夜中に金満 の部屋を訪ねることなど、ありえないと思えた。  あれも夢だったのかもしれない。  発熱が見せた、ただの妄想だったのかもしれない。  一夜明けてみると、あの出来事に現実感はまったく 感じられなかった。  そう、きっと夢だったのだ。 br  ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。  明るい初夏の光が部屋に満ち、俺はその眩しさに目 を細めた。  何も悪いことなど起きるはずがない。  そう素直に信じたくなるような、眩しさだった。 \  少し窓を開け外の風が入るようにして、俺はベッド に戻った。  ふと、ベッドの脇に置いたゴミ箱に目が行く。  そこには、丸めたティッシュペーパーが、いくつか 転がっていた。 「……!」  かあっと頭に血が上る。  …どうやら全部が全部、夢というわけでもなかった らしい。その動かぬ証拠がここにあった。  居たたまれない気持ちで、それらのティッシュを手 に取り、しかし結局やり場はなく、元に戻す。 「…ああ、もうっ」  俺は、がばっと頭から布団をかぶった。  それで、このやましさや気恥ずかしさが軽減される わけもなかったのだが。 \  ……いつのまにかウトウトしていたようだ。  目が覚めると、昼過ぎだった。  よく眠ったからか、今朝よりはずいぶんと、身体が 軽くなっていた。  尿意と空腹を覚え、俺は階下へ降りることにした。 \ 「あら、兄さん。どう? 体調は」  ダイニングのテーブルで本を読んでいたちはやが、 顔を上げる。 「うん。おかげでだいぶましになったよ」 「そう、よかった。おかゆ食べる?」 「うん」  すでに作ってあったのか、レンジにかかっていた鍋 に火を入れる。 「……みんなは?」 「自分の部屋にいるんじゃない? 金満さんは所用が あるとかって出掛けたけど」  出掛けた。つーことは戻ってくるのか。 「かすみはどう?」 \ 「今はよく眠ってる。はい、お待たせ。熱いから気を つけてね」  差し出された茶碗を受け取りながら、気になってい ることを聞く。 「なあ、あの人、いつ帰るんだ?」 「明日の夜、帰るんですって」  がっくり。やっぱりまだ居座るのか。 「ホテルに移るっておっしゃったんだけど、一晩でも 二晩でも一緒だから、今夜も泊まっていただくことに したの。いいわよね?」  嫌だなんて、そんな大人気ないことは言えない。  けれど、笑顔で承諾できるほど大人でもない俺は、 黙ってちはやの作ったおかゆを食べていた。 \ 「昨夜もね、別に変なところはなかったわよ。普通に 脈をとって、熱をはかって…風邪でしょうって」 「そう」 「やっぱり風邪みたいだったし。かすみの様子が昨夜 おかしかったのも、きっとそのせいじゃないかしら」 br  そう…そうなんだろうな。  体調が悪いと、意味もなく不安になったりすること が実際あるし。  なにより俺自身、ぐっすり眠り胃も満ちたせいか、 気分が少し軽くなっていた。 \ 「ごちそうさまでした」 「あ、兄さん、ちゃんと薬飲んでね。ちょっとましに なったからって、油断しちゃだめよ」 「はいはい」  相変わらず母親のような口をきくちはやに追いたて られ、俺は大人しく薬を飲み、再びベッドに戻った。 \  薬のせいか、また少しウトウトし、目覚めた時には 日が暮れかかっていた。  どうやら体調はすっかりよくなっていたようで、頭 も身体もすっきりと軽い。  だからといって起き出したりしたら、またちはやに 怒られるだろうことは目に見えていた。  俺は背伸びをして身体をほぐし、退屈を紛らわせる ために適当な小説をベッドに持ちこんで読み始めた。 \  コンコン。  ノックの音に俺は読みかけの本から目を離し、返事 をした。 「どうぞ」 br 「ちょっとお邪魔してよろしいかな」 br  金満だった。  嫌だ、と言いたい気持ちを堪えて笑顔を作り、椅子 をすすめる。 「あ、いや、そのままで結構ですぞ」  ベッドから起きようとした俺を制して、金満は椅子 を激しく軋ませながら腰掛けた。 \ 「すみませんな、お休みのところ。少し話しておきた いこともありましてな」 「…かすみのこと、ですか」  金満はニタリと笑った。 br 「突然伺ったりしてご迷惑にお思いでしょうが」 「え…いや、そんな…」 「あの子が、ちゃんとこの家で受け入れられているか どうか、この目で確かめたかったのですよ」  …やけに殊勝なことを言う。 「あの子と私の間には血の繋がりはないが、実の娘の ように思ってましてな。来生画伯がぜひにとおっしゃ るのでお預けしましたが、いなくなると実に寂しい」 \  何を言い出す気だ? 心が警報を発する。  かすみの不安は適中していたのか?  金満は本当はかすみを連れ帰るために来たのか? br 「もし、あの子がこちらに馴染めないようなら、連れ て帰ろうと思っていたんですがな…」  目をそらし、苦笑する。 「いや、取り越し苦労だったわけですわ」 br  俺は戸惑いを隠せないでいた。  寂しそうに笑う金満。  実際、そんなに悪い人ではないのかもしれない。  むしろこっちが悪いことをしているような気にさえ なってきた。 \ 「あの…すみません」  思わず謝ってしまう。 「いやいや。可愛がっていただいているようで、安心 しましたよ」 「きっと、幸せにしますから」  って、なんかプロポーズみたいだ。 「よろしくお願いしますよ」  金満もまるで父親のように、鷹揚に頷いた。 \ 「ところで、お父上はお元気ですかな」  お元気も何もあれから連絡のひとつもよこさない。  どういうつもりでかすみをひきとったのだか。  しかし、そういう内々の事情が金満に分かるはずも なく、俺は適当に言葉を濁す。 「ええ、まあ…たぶん…」 「叔母上のことではショックを受けておられたようで すからな、いささか心配で…」 「は?」  ショックを受けておられた?  誰が? 親父が?  あの神経なんか通ってるのかと思うような男が?  …それより、叔母って誰だ? \ 「ずっと音信不通で、ようやく探し当てられた時には すでに亡くなっていたのでは、さぞや気落ちされたこ とでしょうし」 「ちょ、ちょっと待ってください」  俺は慌てて口を挟む。 「いったい何の話ですか?」 「ですから、お父上の妹さん…あなた方の叔母上の話 ですよ。かすみの母親の」 「…はい?」  思わず聞き返してしまう。  言っている言葉は理解できたが、その意味が上滑り しているようで、すんなり飲み込めなかった。  親父の妹の子供。それはつまり…? \ 「従姉妹…?」  呆然とつぶやく俺を見て、金満は不審げに眉をひそ める。 「お父上から聞いておられたのでは?」 「いえ…いや、あの…」  そんな大事なこと、聞いていると思うのが当然だ。  だが親父は『妹』としか書いてよこさなかった。 br 「ふむ…余計なことを申しすぎましたかな」 「いや、単に言い忘れただけだと思います。父は一般 常識に欠けるところがありますので」  なんとか取り繕いながらも、頭の中ではものすごい 勢いでいろいろな思考が駆け巡っていた。 \  かすみは妹じゃなかった。  かすみは従姉妹だった。  従姉妹なら、問題ない。結婚だってできる。  よかった。  従姉妹なら、欲情したって問題ない。  従姉妹なら、セックスしたって問題ない。  そう、従姉妹なら……? br  俺はブンブンと頭を振った。  馬鹿か、俺は!?  とっさにそんなことしか考えられない自分に嫌気が さす。  問題は欲情じゃない、セックスじゃない! \ 「……どうされました」  呆気に取られたように、金満が目を丸くしていた。 「い、いえ…すみません…」  赤面した俺は、ケホケホと咳をしてごまかす。 「あの、お聞きしていいですか」 「なんですかな」 「その…どういういきさつで、かすみの母親…叔母が 金満さんのところに?」  頭の中は疑問符だらけだった。  本当は、親父に聞くべきことかもしれなかったが、 それではいつになるか分かったものではない。 「ふむ…。まあ、お話してもよろしいでしょうな」  そうして、金満は話し始めた。 \  ――十五年ほど前になりますかな。  私の屋敷では、ちょうど住み込みの家政婦を探して おりましてな。  そこへ君の叔母さんが、新聞広告を見て訪ねて来た というわけです。  綺麗なお嬢さんでしたよ。  若くて綺麗な女性が、なにも家政婦などという仕事 を選ばなくても…と言ったんですがね。  まあ、ワケアリなんだろうとは思いました。  なにより、私が彼女をひとめで気に入りましたんで すぐに雇い入れたんですよ。  しばらくは普通に家政婦の仕事をしてもらっていま したが、だんだんお腹が目立ってきましてな。  その頃はすでにかすみを身篭っていたんですな。 \  これには私も困りました。  前例のないことで、他の者の手前もありますし。  そこで、私は彼女に求婚したんです。  まあ、若気の至りというやつですかな。  しかし、きっぱりと断られましたよ。  子供の父親についても、はぐらかされるばかりで、 埒があきませんでした。  それでも、惚れた弱みというやつでしょうな、どう しても彼女を解雇できませんでした。 br  特別扱いなのは分かっていましたが、彼女が子供を 産み、育てる環境は用意しました。  そうして彼女は私の屋敷でかすみを産み、その数年 後に病で倒れ、亡くなったのです。 \ 「誤解なさらぬように言っておきますが、最後まで私 たちの関係は、雇用者と被雇用者でした。彼女が私に 心を許すことは決してなかった」  寂しそうに、でもきっぱりと金満は言った。 「きっと彼女の心にいたのは、かすみの父親だった男 なんでしょうな」 「…なにか、よほどの事情があったんでしょうか」 「さあ、それは私にもわかりませんが」  金満は俺の肩をポンポンと叩いた。 「まあ、そういった訳でして。お恥ずかしい話ですが あの子は惚れた女の忘れ形見なんですよ」 「すみません、辛いことを思い出させてしまって」 「いやいや。もう遠い過去の話ですよ」 \  俺はかなり同情的になっていた。  この男をエロおやじ呼ばわりしていたことを、今更 ながら心の中で謝罪する。 「…かすみはきっと幸せにしますから」 「そう願いますよ。あの子の母親の分まで」 「ええ」  金満は俺の手を握り、また椅子を軋ませて席を立ち 部屋を出ていった。 \  俺は天井を見ながら、今の金満の話を何度も反芻し ていた。  かすみの母親。  全く記憶のない、俺の叔母。親父の妹。  親父が行方不明の叔母を探していたことすら、俺に は初耳だった。  あの親父が、他人のために何かをするなど。  いや、他人ではない。妹か。 br  妹……。  何かが引っかかっていた。  モヤモヤとした思考は、まだ像を結ばない。 \ 「くそ、煙草…」  ベッドサイドを探したが、買い置きしていたはずの 煙草は見当たらなかった。 「きっと、ちはやだな」  風邪をひいてるから、吸わないように持っていって しまったのだろう。  しかし、今の俺にはニコチンの力が必要だった。  ちはやに見つからないように、こっそり買いに行こ うか…? 「…あ」  その時、俺はあることを思い出した。 \  俺はこっそり親父のアトリエに入った。  机の引き出しから煙草を取り出して火を点ける。  この前俺が捨ててしまったので、同じものを買って 入れておいたのだ。  次に親父が帰ってきた時に、余計な文句を言われた くなかったからそうしたのだが、結局こうして自分の 役に立っている。 br  煙草の先から強い香りの紫煙が立ち上る。  癖があるからこそ、慣れると病みつきになるのか。  俺は大きな椅子に深く身を沈めて、ぼんやりと窓の 外を見ながら煙草をくゆらせていた。 \ 「あ」  俺はがばっと身を起こす。  そういえば、ついこの前、ここで思い出したこと。  幼い頃の記憶。  赤ん坊のちはやと、俺の手を引いた綺麗な…。 br  あれが、そうだ。  きっと、そうだ。  誰かに似ていると思った。  そうだ、かすみだ。 「くそっ」  どうしてすぐに気がつかなかったんだ? \  自分の鈍さに舌打ちしながら、俺は叔母についての ものが何かないか、部屋の中を探しまわった。  クローゼットを開け、本棚の本をひっくり返し、机 の中を引っ掻き回し、ベッドマットをはがす。 br 「…くそ、何もないな」  溜息とともに部屋を見渡す。 「げ」  しまった、何も考えずに探索していたら、とんでも ない散らかりようだ。  しかたなく片付けながら、もう一度よく探す。  ベッドメイクをし直し、机の引き出しを閉め、本を 本棚に戻す。 \ 「おっと」  壁にある作り付けの大きな姿見に、イーゼルが倒れ かかった。 「しまった、割れてないかな」  こんなに大きな鏡、もし修理するとなったらいくら かかるか分かったもんじゃない。 「大丈夫そうだな……ん?」  誰が選んだものなのか、ゴテゴテと装飾が施された 金に輝く悪趣味なフレーム。  その一部分が奇妙に色あせているように見えた。 「妙に気になるんだよな、こういうの」  俺はシャツの裾でその部分をごしごしと拭いた。  すると。 \  カチッ。  かすかな金属音がして、鏡がガタンと動いた。 「え?」  それはわずかに軋みながら壁から離れて行き、その 向こうにコンクリートの階段が現われた。 「なんだ、これ…?」  鏡は開閉できるドアになっていたらしい。 「隠し部屋か…なるほど、あの親父らしいな」  この家は親父の設計で建てたらしいから、こんな変 な仕掛けがあったとしても、驚くには値しない。  俺はしばらくそのドアを開けたり閉めたりして考え ていたが、結局好奇心に抗うことができず、その階段 を降りてみることにした。 \  コンクリートの階段を降りると、短い通路を経て、 すぐに行き止まりになった。  俺は暗くてよく分からない壁を手探りで調べ、そこ にドアノブのようなものを見つけた。  やはりドアだ。  ゴクリと唾を飲んでそのノブに手をかけた時。 br 「兄さーん、夕食よ」  部屋の外からちはやの声が聞こえる。  まずい、戻らないと。  慌てて階段を上がり、鏡のドアを元通りに閉める。 \ 「兄さん? やだ、まだ眠ってるのかしら。ひなた、 ちょっと見てきてくれる?」 「うん、いいよぉ」  ちはやとひなたのやりとりが聞こえる。  アトリエの前から気配がなくなるのを見計らって、 俺はこっそりとアトリエを抜けだし、トイレに入る。 br 「あれぇ? お兄ちゃん、いないよぉ」  ひなたの声がするのに合わせて、俺はトイレの水を 流しながら廊下に出た。 「なに? 俺に用?」 「あ、お兄ちゃん」  階段の上にいるひなたに声をかけると、笑顔で階段 を降りてきた。 \ 「ちはやちゃーん、お兄ちゃんいたよぉ」  キッチンから顔を出すちはや。 「あ、そこにいたの。夕食、食べれそう?」 「うん、腹減ったよ。今日の飯、なに?」  何食わぬ顔で自然に会話をしながら、俺の頭の中は あの部屋のことでいっぱいだった。  後でまた、こっそり確認に来よう。  あの部屋が何なのか分かるまでは、妹たちには内緒 にしておいた方がいいような気がする。  だから、ひとりで調べてみよう。  俺は極力普通を装って、妹たちと金満が待つダイニ ングに向かった。 \  夕食は金満も交え、終始和やかな雰囲気だった。  ただ、かすみはやっぱり元気がなかった。  まだ体調がおもわしくないのだろう、青い顔で少し だけ食べると、すぐに席を立った。 「やっぱり、病院に連れて行った方がいいかしら」  心配そうにちはやが言う。 「でも今は週末だから、救急指定の病院になるだろ。 とりあえず週明けまで様子を見たら?」 「そうね…。熱は下がってるみたいだし」  俺とちはやがそんな会話をしていると、聞いていた 金満がポケットから錠剤を出した。 「栄養剤なら手持ちがありますよ。後でこれを飲ませ ましょう。あまり食べないようだから、体力の消耗が 心配ですからな」 \ 「まあ、助かります。ありがとうございます」 「いやいや。心配なのは私も同じですからな」  昼間の話を聞いたせいか、今は金満の言葉も素直に 信じられる。我ながら単純だな。 br 「あ」 「え? どうかした、兄さん?」  そういえば、かすみが従姉妹だという話は、まだ皆 にしていなかった。どうしようか? 「兄さん?」 「いや…なんでもない」  …まあ、いいか。  かすみが本当は従姉妹であっても、俺たちの家族で あることに変わりはない。 \  今は体調の悪いかすみに気を遣わせるようなことは 出来るだけ避けたかった。  それに、叔母のこともまだ何も分かっていない。  そのあたりもちゃんと調べた上で、皆が納得できる ような状態で話そう。  そのためにも、あの隠し部屋をきちんと調べないと いけないな。 br 「ごちそうさま」 「はい、おそまつさま。あ、兄さん、薬…」 「わかってる、ちゃんと飲むよ」  俺は早々に夕食を切り上げ、自分の部屋に戻った。 \  ベッドに寝転んで天井を見ながら、俺は皆が寝静ま るのを待っていた。  アトリエの隠し部屋。  正直、何が出てくるか分かったものではない。  なんせスキャンダルなど屁とも思わないあの男が、 わざわざ人目を避けるように作った場所だ。  妹たちにはとても見せられないようなものが、ない とはいえない。  全容が分かるまでは、秘密裏に行動すべきだろう。 br  しかし、昼間さんざん眠ったせいもあり、ただ時間 が過ぎるのを待っているのは退屈だった。 「…かすみは大丈夫かな」  俺はかすみの様子を見に行くことにした。 \  コンコン。  部屋をノックするが、返事はない。 「…かすみ?」  もし眠っていたら起こしてはいけないと思い、小声 で呼びかけながらドアを開ける。 br 「……う…ん…」  しんと静まり返った部屋から、かすみの苦しげな息 遣いが聞こえる。  俺は慌ててベッドに駆け寄る。  ハァハァと荒い息をつき、汗が粒になって額に浮か んでいた。  やばい、これは本当に救急車を呼ばないといけない かもしれない。 \ 「かすみ、大丈夫か? かすみっ」  俺は額の汗を拭いてやりながら、名前を呼んだ。  汗はかいているものの、額はひんやりとしていて、 高熱があるわけではないようだった。 「…や…いやっ…いやぁ…」  うわごとのようにつぶやくかすみ。  何か夢でも見ているのだろうか、苦しそうに寝返り をうつ。  起こしてやった方がいいかもしれないと思った時。 「いやあぁっ!」  がばっとかすみが起きあがった。 「うわっ」  俺は驚いて後ずさる。 \ 「はぁ…はぁ…」  肩で息をしながら、かすみが呆然とこちらを見た。 「や…いやっ! いやあっ!」  俺の姿を認めた途端、ベッドの上を這うようにして 逃げようとするかすみ。  俺は慌ててかすみの腕をとった。 「いやっ、離してっ、もういやあっ!」  俺の腕から逃れようとしているのか、かすみは狂っ たように暴れだす。 「か、かすみっ? 俺だ、和馬だよ」 「……え」  ようやく落ちつき、かすみはくたっと力を抜いた。  まだ震えているその肩を抱いて、頭を撫でてやる。 \ 「どうした? 怖い夢でも見たのか?」 「……は…い」  答える声も、震えていた。 「もう大丈夫。何も怖くないよ」  俺は小動物のように脅えているかすみを、ぎゅっと 抱きしめた。  薄いパジャマごしに、かすみの鼓動が伝わる。  その鼓動はとても速く、かすみがどれほど怖がって いたのかがうかがえた。  抱きしめて頭を撫でているうちに、それはだんだん と速度を落としてくる。  とくん、とくん、と規則正しい心臓の音。 「…落ちついた?」 「はい…」 \  そっとかすみが身体を離す。 「すみません…もう、大丈夫ですから」 「あ、うん…」  冷静になってみると、俺はまた危ないことをしてい たような気がする。 br 「……ふぅ」  かすみが小さく溜息をつく。 「そんなに怖い夢だったの?」 「もうっ、思い出させないで下さい」  ふたりでクスクスと笑い合う。  かすみの前髪がおでこに貼りついていた。  それを指ですいてやると、かすみは恥ずかしそうに 顔を伏せる。 \ 「お兄様」 「ん?」 「…ありがとう…ございます」  改まってお礼なんか言われると、照れくさい。 「な…なにいってんの」 「…でも、どうしても言いたくて」  とん。  かすみが俺の方に倒れ掛かってくる。 「ほんとに…ありがとうございます…」  首筋にかすみの息がかかる。  ドキンと心臓が跳ねあがる。  やばい、これじゃあまた…。  ドキドキしながら、俺はかすみの肩にそうっと腕を 回し…。 \ 「あら? 兄さん」 「うわあっ!?」  急に背後からちはやの声がして俺は飛び上がった。 「…なに驚いてるの。かすみ、調子はどう?」 「あ、はい、おかげさまで」  ちはやは小さなトレイに水の入ったコップを載せて 部屋に入ってくる。 「金満さんに栄養剤をいただいたのよ。これを飲んで ゆっくり休みなさいね」 「えっ…?」  かすみの顔が曇る。 「あの…飲みたくないです…」 「だめよ、あなたあんまり食べてないでしょう」  かすみは助けを求めるように俺の顔を見た。 \  でも俺としてもやっぱり薬は飲んでおいて欲しい。 「栄養が足りないと治る病気も治らなくなるだろ? だから飲んでおいたほうがいいよ」  かすみの背中を撫でながら、諭すように話す。 「…は、はい」  かすみは黄色い錠剤を手に取ったものの、まだ躊躇 している。 「はい、お水」  ちはやにコップを差し出され、薬を飲み下す。 「……」 「よし、じゃあ今日も早く休みなさいね」 「はい…」 \  ちはやは満足げに頷き、空のコップを持って部屋を 出ていきかけて、思い出したように振り向く。 「そうそう、兄さんもよ」 「了解」  ドアが閉じられ、再びかすみとふたりきりになる。 「えーと。じゃあ俺も部屋に戻るよ」 「……」  かすみが泣きそうな顔で俺を見る。 「どうした?」 「…あの…あの」 「また怖い夢を見そうで怖いの?」  こくんと頷く。 「あの、お兄様の部屋で一緒に寝てもいいですか?」 「……ええっ!?」 \  そ、それはマズイ。 「それは、ダメだよ」 「ど、どうしてですか…」  どうしてって、俺がマズイ。つーかヤバイ。 「いや、それは…ほら、俺は男でかすみは女で…」 「でも…兄妹じゃないですか…」  いや、従姉妹だし。  従姉妹だから結婚できるし、セックスも…。 「違うっ…!」  俺はブンブンと首を振る。 「え…?」 「あ、いや、違わないけど」 「ダメ、ですか…?」  うー。ダメっていうか…。うー。 \  すがるような目で見られると、断りにくい。 「…わかった。いいよ」 「ありがとうございます!」  嬉しそうに笑うかすみ。  …理性、理性、理性。  俺は心の中でそう唱えながら、かすみを連れて自分 の部屋に戻った。 br 「ほら、ベッドに入って、さっさと寝る!」 「はいっ」  かすみはごそごそとベッドに上がり、そのまま壁際 の方に寄ると、布団をはぐった。 「どうぞ、お兄様」  …どうぞと言われても。 \ 「いや、俺は床に布団敷くから」 「ええっ」  再び悲しそうな目で俺を見つめる。 「…わかったよ」  理性、理性、理性、理性、理性。  呪文を唱えながらかすみの隣に入る。 「ふふ。あったかいです」 「そっか。じゃあ、早く寝なさい」 「はい。おやすみなさい、お兄様」  微笑んで目を閉じるかすみの髪を撫でてやりながら 俺は彼女が寝つくのを待つ。  幸い、俺のほうに睡魔は来ていない。  かすみが眠ったら、こっそり抜け出してアトリエへ 行こう…。 \ 「……ん」  目を開けると、目の前に安らかに眠るかすみの顔が あった。 「!!」  驚いて跳ね起きそうになって、状況を思い出す。  そうだ、かすみが寝ついたら抜けだそうと思ってい たんだった。  なのに、いつのまにか俺まで眠っていたらしい。  あれだけ昼間寝ておいて、ふがいない…。 br  俺はかすみを起こさないように、そうっとベッドを 抜け出す。  時計を見ると、夜中の2時だった。  家の中は静まり返っていた。皆もう寝たのだろう。 \