アトリエのドアを開け、例の鏡の前に立った。  部屋の電灯は点けずにあらかじめ用意していた懐中 電灯のスイッチを入れ、フレームのボタンを押す。  昼間と同じようにカチリと小さな音を立てて、鏡が 壁から離れた。  俺はその隙間に、するりと身を滑りこませる。 br  足の裏が感じる、コンクリートの冷たい感触。  初夏だというのに、この寒々しさはなんだろう。  俺は軽く身震いをして、鏡のドアを振り返る。 「……あれ?」  昼間入った時には気づかなかったが、鏡はマジック ミラーになっていて、無人の部屋を映し出していた。  親父の趣味は理解しがたい。理解したくもないが。 \  念のためドアの内鍵をかけ、俺は階段へと足を踏み 出した。  歩調に合わせるように揺れる懐中電灯のオレンジ色 の光が、否応無しに緊張を高めていく。  突き当たりに、周囲の打ちっぱなしのコンクリート と不釣合いに重厚な、金属製のドアを確認する。  今更だが、俺は不安になりはじめた。  本当に入ってしまってもいいのだろうか。  知ってしまうと引き返せない何かが、ここにはある ような気がして、ドアノブを握ったまま逡巡する。 br 「…ここまで来て、引き返せるかよ」  誰に言うでもなく、あえて言うなら自分自身にそう 言い聞かせて、俺はその重いドアを開けた。 \  黴臭いような、何かの腐臭のような匂いがかすかに 鼻につく。  俺は電灯のスイッチを探し、それを点けた。 br 「……うわ」  剥き出しのコンクリートが寒々しい床とは対照的に 壁は防音材が張り巡らされている。  家具らしい家具と言えば、病院のベッドのような鉄 パイプのベッドと、スチールの棚がふたつ。  たたんだパイプ椅子が壁に立て掛けてある。  電灯も天井から下がった裸電球ひとつ。  床にも違和感があった。  よく見てみると、わずかな傾斜があるようだった。 \  部屋の端に、剥き出しの水道の蛇口があった。  側には巻き取られたホース。 床に排水溝があり、壁には紐がスイッチになっている 旧式の換気扇。  部屋の中とは思えない、まるでガレージかなにかの ようだった。 br  異様な部屋の空気に圧倒されながら、俺はスチール の棚の方へ歩き出す。  何かがあるとすれば、ここぐらいだろう。  棚の扉を開けると、おびただしい数のスケッチが棚 からこぼれ落ちた。  派手な音を立てて床に散らばったスケッチを拾い集 めながら、その内容に俺は息を飲んだ。 \  それらのスケッチは、あきらかに性交中の女を描い たものばかりだった。  歓びとも苦悶ともとれるような表情の女。  上から見下ろしたような構図、後ろから犯している 構図、あるいは下から見上げた構図…。  いくつかのバリエーションはあるものの、それらは おそらくすべて性交中に描かれたものだろう。  素人目で見ても線は荒れ、だが妙な勢いがあった。  俺の脳裏に女を犯しながらスケッチブックにその姿 を写しとっていく狂気じみた親父の姿が浮かび、心底 ぞっとした。 \  モデルの女は一定ではなかった。  髪の長い女、短い女、痩せた女、豊満な女…。  俺はその中に記憶の底にあるあの女性――俺の叔母 にしてかすみの母親である女性がいるか、気をつけて 見ていったが、それらしいものはなかった。  ただ、じっくり見ているうちに更に異様なスケッチ があることも分かった。  男性器を模した玩具を膣に挿入された女だの、身体 中を皮の拘束具で拘束された女だの、尻に巨大な浣腸 器をあてがわれた女だのといった変態じみたものだ。  吐き気がした。  女にこんなことをした上で、更にその様子を冷静に スケッチしている男。  俺は、その男の血を確実に受け継いでいるのだ。 \  俺は溜息をついて、確認済みのスケッチをベッドの 上に置いた。  棚に目をやるとまだまだ紙の束が残っていて、うん ざりする。  きっとあれも、同じようなものだろう。  精神が疲弊していくのを感じ、スケッチのチェック は後回しにして、他にめぼしいものがないか探してみ ることにした。